3.跡部ディスってるって | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2018>平成三十年7月号(通算201号)猛暑味 万平二百四十二歳3.跡部ディスってるって
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天保十五年(1844)九月、永代橋の竣工式が行われた。
それ以前、鳥居耀蔵は水野忠邦に呼ばれた。
「永代橋はどうなった?」
「ほぼ完成しました」
「もうすぐ竣工式だな?」
「ですね」
「渡り初めさせる長寿日本一とやらはどうした?」
「すでに三河から江戸に向かっているはずです。竣工式には間に合いますので御安心を」
「そうか、それはよかった」
「ははっ」
「これでおまえの仕事もなくなった。長い間、御苦労であった」
「は?」
「おまえはクビだ。町奉行の後任は、余の弟が務める」
「跡部良弼(あとべよしすけ)殿ですか?」
「そうだ」
「大塩平八郎の乱を誘発したことで悪名高い、あの跡部良弼殿ですか?」
「一言多いな。わかったらとっとと去れ。余は余を失脚させたおまえの裏切りを許してはおらぬぞ」
「……」
長寿日本一とは、三河に住む百姓・万平(まんべい)であった。
生きミイラのような万平とその家族は、ムニャムニャと自己紹介した。
「三河国宝飯郡水泉村の百姓・万平、二百四十二歳」
「万平の妻・太久(たく)、二百二十一歳」
「万平の長男・万吉(まんきち)、百九十六歳」
「万吉の妻・茂牟(しげむ)、百九十三歳」
「万平の孫・万歳(まんぞう)、百五十一歳」
「万歳の妻・陽須(やす)、百三十八歳」
で、三世代家族でそろって永代橋を渡り初めしたのである。
ところが式典後、ある事実が判明した。
「例の万平のことですが」
新任町奉行・跡部良弼が突き止めたのである。
「おお、あの大老人がどうした?」
「万平は寛政八年(1796)に百九十四歳か百九十五歳で死んでいたことが明らかになりました」
一瞬、忠邦は固まってしまった。
「何だって?――では、渡り初めに来た二百四十二歳の大老人は誰なのだ?」
「わかりません。寛政八年といえば四十八年も前です。生きているとすると、年齢はほぼ合っていますが」
「ならいいではないか。生きていたのだ」
「それより気になることがあります。万平は元文二年(1737)の百八十四歳の時に先々代将軍・家治公の御長寿を祝って白髪を献上していたこともわかりました」
「ほう、前から有名だったということか?それの何が問題なのだ?」
「問題はそれではありません」
「では、何だ?」
「計算が合わないのです」
「はあ?」
「元文二年は今から百七年前です。つまり、元文二年に百八十四歳なら、今年は二百九十一歳のはずです」
「???」
「これはどういうことでしょうか?」
「こっちが聞きたいわ!」
「それなら教えてあげましょう。永代橋の竣工式にやって来た万平はニセモノだったのです!おそらく、ほうび目当ての詐欺(さぎ)師だったのでしょう!」
「!」
「これは捨て置けません。ニセ万平を、とっ捕まえますか?」
「待て! めでたい式典を汚したくはない」
「もうけがされました」
「いいではないか!永代橋は無事完成したのだ!今さら事を荒立てることはない!めでたい日に嫌な話はナシだ!」
「ニセモノに渡り初めさせて、何がめでたいんでしょうか?」
「……」
「こんなことしてたら、また崩落事故でも起きちゃうんじゃないですか?」
「!」
「いずれにせよ、あのけがされた橋は長持ちしますまい」
「うるさい!渡り初めは橋だけの永続を願ってやったことではない!今度こそ我が政権が長続きするように祈願するためにやったことなのだ!」
「その結果がニセモノですか……」
「ううっ!」
「それなら政権ももう終わりでしょうな。残念です。南無阿弥陀仏〜」
「うわおー!」
忠邦はますますやる気がなくなった。
弘化二年(1845)二月、忠邦は病気を理由に老中を再辞職した。
同年九月には蟄居(ちっきょ)させられると、以後三度政界に返り咲くことはなかった。
一方の永代橋も長持ちしなかったようである。
現在の永代橋は大正十五年(1926)に完成した鉄橋で、平成十九年(2007)に国の重文に指定されたという。
[2018年6月末日執筆]
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