2.おいしそうなエサ | ||||||||||||||
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「醜いのう〜」
私と同意見の人が、洛東の東山(ひがしやま。京都市東山区)に住んでいました。
左大臣・藤原緒嗣(おつぐ。「式家系図」参照)。
承和九年(842)当時の政界首班です。
「権力争いなどして何になる。策というものは、弄(ろう)した者のところに必ず返ってくるものだ。それよりも長生きすることだ。正義に同情するのはいいが、正義に加担してはならない。悪に憎悪するのはいいが、悪に抵抗してはならない。義憤に駆られた藤原仲成(「内乱味」参照)が無謀な戦いに敗れてからもう三十年だ。私は生き長らえることによって、北家の偽善者・藤原内麻呂(うちまろ。「北家系図」参照)より長生きすることができた。だからといって、内麻呂に勝ったことにはならないがね」
今では内麻呂も、その子・藤原冬嗣も、この世の人ではありませんでした。
「いえ、緒嗣公は内麻呂公に勝ったようなものですよ。あなたは嵯峨帝に幅広い人材を登用するよう建言しました。嵯峨帝が家柄よりも能力を重視する政治に努めた結果、藤原北家の独裁を阻止することができたのです。それにしても北家は動いただけ損でした。氷上川継(ひかみのかわつぐ)の変で京家(きょうけ)を(「菅降味」「京家系図」参照)、伊予(いよ)親王の変で南家(なんけ)を(「平城味」「南家系図」参照)、薬子の変で式家(しきけ)を没落させるのに成功したものの、天下を取ることはできなかったのですから」
弘仁三年(811)に藤原内麻呂が五十七歳で没して以降、嵯峨天皇(のち上皇)は一貫して最高権力者であり続けました。
緒嗣は微笑みましたが、すぐに消沈しました。
「しかしその嵯峨帝が今は死の床にある。最高権力者の死によって、嵯峨系と西院系の最後の戦いが始まる。北家の当主良房(「告発味」「諾威味」参照)は嵯峨系だ。嵯峨系が勝てば、再び北家が天下を目指してくる可能性が高い。おもしろくなるぞ。醜い他人の争いほどおもしろいものはない」
「まあ、私には関係ないことですからね。私は皇位とは無縁になった平城系ですから」
「関係ないことはない。平城系がどちらにつくかによって、形勢はガラリと変わる」
「……」
「貴殿は両派から声を掛けられるであろう」
「あははは、私は誘われてもどっちにもつかないですよ〜」
「皇位というエサを出されてもかね?」
「!」
「ちょっと小耳に挟んだ。貴殿は家庭内ではいつもバカにされているそうだね?」
「……」
●嵯峨上皇政権閣僚(842.6/当時) |
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官 職 | 官 位 | 氏 名 | 兼官・備考 |
上 皇 | 嵯峨上皇 | ||
太皇太后 | 橘嘉智子 | 嵯峨上皇皇后 | |
皇太后 | 正子内親王 | 淳和上皇皇后 | |
天 皇 | 仁明天皇 | 嵯峨上皇皇子 | |
皇 后 | 藤原順子 | 冬嗣の子。良房の叔母 | |
皇太子 | 恒貞親王 | 淳和上皇皇子 | |
尚 侍 | 藤原美都子 | 冬嗣の妻。良房・順子らの母。南家 | |
左大臣 | 正二位 | 藤原緒嗣 | 百川の子。式家 |
右大臣 | 従二位 | 源 常 | 左大将。嵯峨上皇皇子 |
大納言 | 正三位 | 藤原愛発 | 民部卿。冬嗣の子。良房の叔父 |
大納言 | 正三位 | 橘 氏公 | 右大将。嘉智子の兄 |
中納言 | 正三位 | 藤原吉野 | 蔵下麻呂の孫。式家 |
中納言 | 正三位 | 藤原良房 | 左兵衛督。冬嗣の子。北家 |
参 議 | 正三位 | 源 信 | 左衛門督。嵯峨上皇皇子 |
参 議 | 正四位下 | 三原春上 | 弾正大弼。新田部親王の子孫 |
参 議 | 正四位下 | 朝野鹿取 | 葛城襲津彦の子孫。能吏 |
参 議 | 正四位下 | 文室秋津 | 右衛門督・春宮大夫。綿麻呂の弟 |
参 議 | 従四位上 | 和気真綱 | 右大弁。清麻呂の子 |
参 議 | 従四位下 | 正躬王 | 左大弁。桓武天皇の孫 |
参 議 | 従四位下 | 安倍安仁 | 大蔵卿。能吏 |
その通りでした。
私は昔から妻にバカにされていました。
妻は機嫌が悪くなると、私をいじめるんです。
『なあに?出世も皇位も見込みのないアホ親王』
私が、
『アホっていうな!』
と、怒ると、かえって、
『アホ!アホ!アホ!』
って、連呼するんです。
で、子どもたちにも皮肉を言いました。
『ごめんね、お前たち〜。うちはお父さんもお母さんも皇族なのに、お父さんがアホだったために、お前たちは「在原さん」にさせられちゃったのよ〜。わかるかしら?お前たちは王子様でも王女様でもないなんでもない、ただの庶民の「在原さん」なのよ〜』
妻は大帝・桓武天皇の皇女、伊都内親王(いつないしんのう)でした。
年上でプライドが高い妻は、これみよがしにため息ついてウソ泣きしてきました。
『こんなはずじゃなかった。未来の帝って聞いたから結婚したのに、ただのアホボンだったとは……。いーないーな、嵯峨系や西院系の王子様と結婚した女どもは。かわいそうな私。ウッウッ……』
思い出して震えていた私を見て、緒嗣がうれしそうに勧めました。
「親王殿下。嵯峨系と西院系、どちらにつくか選ばれよ。心配は無用だ。殿下が選んだほうが勝つのだ。勝った殿下は立太子し、中継ぎの帝として即位することができるのだ。もはや妻子にバカにされることもなくなるのだよ。つらかったろう〜。さあ!好きなほうを選ぶがいい!」
「……」
「どうした?私の言うことが信じられないのか?これでも私は希代の策士・藤原百川(「奈良味」「ヤミ味」等参照)の子だ。私自身も浮き沈みの激しい政界に数十年にわたって生き続け、ついには首班にまで昇り詰めたやり手の政治家だ。その私の見立てに、何か異論があるとでも言われるのかね?はっきり申そう!殿下がどちらにもつかなければ、生涯ただのアホボンだ」
「……」