4.やっぱり仲良しが一番

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安保法制あんぽんたん
1.嵯峨派vs西院派
2.おいしそうなエサ
3.アホボンからの卒業
4.やっぱり仲良しが一番

 承和九年(842)七月十五日、嵯峨上皇が崩御しました。享年五十七。
 七月十七日、六衛府
(ろくえふ)が春宮坊帯刀舎人・伴健岑但馬橘逸勢の私邸を包囲、二人を捕らえ、関係者の斎宮(さいぐう)主馬長(しゅめのおさ)・伴水上(とものみなかみ)、右近衛将曹(うこのえのしょうそう)・伴武守(たけもり)、春宮坊帯刀舎人・伴甲雄(かつお)を取り調べました。
 また、左右京職に命じて都に戒厳令を発し、山城国内の五道
(宇治橋=大和路+大原道=近江路+大枝道=丹波路+山埼橋=摂津路+淀橋=河内路)を封鎖しました。

 健岑逸勢の糾問は十八日から始まりました。
「謀反を起こそうとした理由は何だ?」
「え?謀反!?」
「誰がそんな濡れ衣を!?」
 二人は否定しましたが、激しい拷問を受けると健岑は弱気になりました。
「うーん、ゲホゲホッ!はえ〜?皇太子殿下を東国へ?なんかそんなようなこと言ったかもしんない〜」
 この間、恒貞親王は、
「部下の罪は私の責任」
 として皇太子の辞表を提出しましたが、仁明
(にんみょう)天皇(「尾行味」参照)は取り合いませんでした。
「両統迭立という父と叔父の盟約をそう簡単に崩すわけにはいかぬ」

 私の邸宅前でも武官たちが往来して騒がしくなりました。
 妻はおびえました。
「どうしたのこれ?何があったの?」
 私は説明しました。
「悪い人たちが次々と逮捕されているんだよ」
 本当は悪い人たちではありませんでした。
 私がアホボンから卒業するために、悪い人たちという濡れ衣をかぶせてしまった人たちでした。
 でも、そんなことは妻に言う必要はありません。
 これから私の妻は、「アホボンの妻」ではなく「皇太子妃」から「皇后さま」になるのです。
 子たちも「在原さん」ではなく、「親王殿下」や「内親王殿下」になるのです。
「悪い人たちって誰?」
皇太子の部下の人たちだよ」
「え!じゃあ皇太子さまもただじゃすまないわけ?あの優しいお方が!?」
「だろうね」
 私は心の中で謝りました。
(ごめんな、皇太子。そして、健岑たちも。本当にごめんな。君たちの分も私たちが幸せになるから、どうか許しておくれ)
 伊都内親王がすり寄ってきました。
「あなた。いつもアホって言ってごめんね」
「どうしたんだよ急に」
「私、気づいたのよ。幸せってことは、いいことがあることじゃなかったのよ。悪いことがないことだったのよ。確かにあなたは帝にはなれなかったわ。でも、今は何も悪いことはないわ。これでいいのよ。何もないことより幸せなことはないわ」
 子の一人、在原業平は十八歳になっていました。
 風来坊のようにやって来た業平は、私たちを見て言いました。
「おやじとおふくろが仲が良いのは珍しいな。人間、仲良しが一番。どーれ、今夜の俺はどこの娘と仲良しになろうかな?」
 業平は風のように消えていきました。
「そうか、仲良しが一番か。本当にそうだな」
 私はしみじみと幸せを感じました。
 この幸せを困っている人たちにも分けてあげたくなりました。
 真っ先に浮かんだのは、恒貞親王と健岑たちでした。
「そうだよ!嵯峨派と西院派も争うことなんてないんだ!みんな仲良しが一番なんだ!」

 私は嵯峨院に向かいました。
 途中、藤原良房と仲間たちに通せんぼされました。
「殿下。清々しいお顔でどこへ行かれるのですか?」 
「嵯峨院だよ」
「嵯峨院?何しに?」
「太皇太后陛下に本当のことを話しに行くんだよ」
「……。何ですって!?」
「早く話してやらなければ皇太子健岑がかわいそうだ。そこをどいてくれ」
「話すって、あんた、正気ですか!?」
「正気に決まっているじゃないか。この清々しい顔を見てくれ。さあ、のいてくれ」
「ダメです!」
「ダメ?何がダメなんだ?本当のことを話すことのどこがいけないんだ?」
「決まっているじゃないですか!すでに事は進んでいるのです!まもなく恒貞は廃太子にされ、あなたは政変の第一功労者として立太子するのです!将来は帝として即位することができるんです!それなのに、何が本当のことですか!そんなことしたら、今までのことが水の泡じゃないですか!」
「でも私は決めたんだ。やっぱりウソは良くない。本当のことを話して、わだかまりを全部なくして、嵯峨派も西院派もみんな仲良しになろうよ!」
「コイツ、わけわかんねー!アホだ!正真正銘のアホだ!」
「アホ?」
「ああ、あんたがこんなアホだとは思わなかったぜ!みんな仲良し?うぷっ!どこの夢物語だそりゃ!今さらそんなことできるわけねーじゃねーか!今や西院派は虫の息なのだ!あと一歩で嵯峨派の完全勝利がなるのだ!祖父内麻呂や父冬嗣が願っていた、北家独裁政治体制の布石がなるのだ!それなのに、何が仲良しだっ!余計な邪魔はさせねえぞコラーッ!」
 良房は仲間たちに命じました。
「者ども、この者を縛り上げよ!この者は政変の功労者ではない!反逆の徒、逆賊の一味である!妙な動きをされないように、しばらく幽閉しておけ!」
「了解!」
 ボコスカッ!
「ぐえ〜」
 私はボコられて伸びました。
 縛られて暗い房に閉じ込められました。
 そして、三か月後の十月二十二日にあっけなく死んでしまいました。享年五十一。
 摂津芦屋
(あしや。兵庫県芦屋市)にある親王塚が私の墓です。

 その間、橘嘉智子の威を借りた良房の手際の良さは見事でした。
 七月二十三日に恒貞親王を廃し、ついでに政敵も片っ端から幽閉、二十六日には連中の処分を決定し、二十八日には早々と刑を執行してしまったのです。

●承和の変処罰者●

処罰者 身分・関係 処罰
恒貞親王 皇太子。淳和天皇の皇子。 廃太子
藤原愛発 大納言・民部卿。恒貞の岳父。 解任・追放
藤原吉野 中納言。式家 左遷(大宰府員外帥)
文室秋津 参議・右衛門督・春宮大夫。 左遷(出雲員外守)
伴 健岑 春宮坊帯刀舎人。 隠岐へ流刑
橘 逸勢 但馬権守。 伊豆へ流刑
藤原高直 春宮大進。 左遷
その他六十余名を流刑

 八月四日、新たに皇太子が立てられました。
 良房の娘・藤原順子
(じゅんし)所生の道康親王でした。

 東山で嘆いている老人がいました。
「阿保親王はアホすぎる……。藤原良房は速すぎる……」
 私をそそのかした藤原緒嗣でした。
 彼は嘆きました。
「これでは『天下三分の計』で死に花を咲かせることもできなかった……」
 承和十年(843)七月二十三日、藤原緒嗣は亡くなりました。享年七十。

[2015年5月末日執筆]
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※ なぜ阿保親王が密告後に急死したかは、藤原良房が編修した『続日本後紀』には書かれていません。
※ 藤原緒嗣の「野心」については筆者の妄想です。

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