1.原敬の独白

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長崎市長射殺事件
1.原敬の独白
2.中岡艮一の独白

 何が何だかわからなかった。
 ドンと青年がぶつかってきたのはわかった。
 しかしそれは事故であり、故意だとは思ってもいなかった。

原 敬 PROFILE
【生没年】 1856-1921
【別 名】 原健次郎・ダビデ・平民宰相・鷲山・一山・逸山
【出 身】 陸奥国盛岡城外本宮村(岩手県盛岡市)
【職 業】 記者・官僚・政治家
【役 職】 外務省御用掛→天津領事→パリ日本公使館書記官
→農商務省参事官→農商相秘書官→官房秘書課長
→外務省通商局長→外務次官→駐朝公使
→大阪毎日新聞編集総理→同社社長
→政友会総務委員・幹事長→逓相
→大阪北浜銀頭取→古河鉱業副社長→内相
→首相・法相・政友会総裁・衆院議員。
【政 策】 教育改革・産業振興・交通整備
・国防充実・積極政策・協調外交
【著 作】 原敬日記
【祖 父】 原直記(陸奥盛岡藩家老)
【 父 】 原直治(陸奥盛岡藩側用人)
【 母 】 原リツ(リツ子)
【 妻 】 中井貞子(中井弘の娘)・菅野浅子(浅)
【養 子】 原彬・貢
【兄 弟】 原琴子・磯子・恭・勉・誠・良路
【 師 】 小山田佐八郎・エブラル・箕作秋坪
・中江兆民・伊藤博文・井上馨ら
【上 司】 陸奥宗光・西園寺公望・古河潤吉ら
【側 近】 高橋光威・床次竹二郎・横田千之助ら
【盟 友】 松田正久・内田康哉・牧野伸顕・山県有朋ら
【仇 敵】 頭山満・加藤高明・犬養毅・中岡艮一ら
【没 地】 東京駅(東京都千代田区)
【墓 地】 大慈寺(岩手県盛岡市)
【関連地】 原敬記念館・盛岡市先人記念館(岩手県盛岡市)

 余は倒れた。
 痛さというより苦しさが余を襲った。
「総理! どうなさいました!」
 元田肇
(もとだはじめ)鉄道相であろうか? 
 余は答えることもできなかった。
 すぐに意識を失ってしまったからである。

 余は青年の顔を知っていた。
 二、三度、この東京
(東京都千代田区)で見かけたことがあった。
 声をかけたこともあった。
「君はここに勤めているのかい?」
 青年は否定した。
「いいえ。ここではなく、大塚駅
(山手線。東京都豊島区)で転轍手(てんてつしゅ)をしています」
 線路の進路を切り替える、あの役目である。
「そうか。若いが、二十歳前か?」
「十九歳です」
「十九歳か」
 余は思わず微笑んだ。
 六十六歳の余は、その若さをうらやましく思い、また、その青年が余が全国に敷き広げた鉄道の仕事に携わっていることがうれしかった。

 その青年が余を刺したのである。
(なぜだ!)
 余は叫びたかった。
(余は刺されるようなことは何もしていない! 余があなたにいったい何をしたというのだ! 余は私利私欲のために政治を行ってきたわけではない! すべてはあなたたち国民のためにしてきたことではないかっ!)

*          *          *

 余は安政三年(1856)二月九日に陸奥盛岡城外本宮村(岩手県盛岡市)で生まれた。
 父は陸奥盛岡藩
(南部藩。「2009年6月号 友愛味」参照)側用人・原直治。母はリツ。祖父は同藩家老・原直記である。
 幼名は健次郎、元服後は敬
(たかし。通称けい)と名乗った。
「坊ちゃま、坊ちゃま」
 そう呼ばれた花の時代は短かった。
 戊辰戦争で幕府側についた盛岡藩は敗北、新政府から莫大な賠償金を要求されたのである。
「七十万両だ。早く払え」
「そんな大金、ありませんて」
「じゃあ倒産だな」
「そんな〜」

 こうして盛岡藩はいち早く廃藩となった。
 当然、余の父もプーになり
(祖父は幕末に死去)藩校・作人館に入っていた余も自動的に中退となった。
「勉強したいなー」
 信じられないかもしれないが、それが頭が良かった余の本心であった。
 で、旧藩主・南部家が、東京に英学校・共慣義塾を設立したと聞くと、喜んで上京した。
 が、現実は厳しかった。
藩校と違って学費がいりますよ。高いですよ〜」
 そんなもん、一家そろってプーの余が払えるわけがなかった。
「えー! 特待生にしてよ〜!」
 余は頭が良かったので、藩校では学費を免除されていた。
「ダメです。南部家も廃藩で苦しいですから、こういうところで取るんです」
「強欲〜」

 余はフランス人・マリンの経営する神学校に入った。
 学費も食費も寮費もタダであった。
「さすがフランス人は日本人とは違う。太っ腹だ」
 余は感激してフランス語を猛勉強し、洗礼まで受けた。
 ダビデ・ハラ。
 それが洗礼名である。
 御存知と思うが、イスラエルを統一したあの偉大なる王様と同じ名前であった。
「余もいつかは――」
 そんな夢も抱いていた。

 その後、余は分家して士族の身分を捨てて平民になった。
 在野の洋学者・箕作秋坪
(みつくりしゅうへい)自由民権運動の父・中江兆民らに学び、司法省法学校に入学したが、薩摩藩出身の校長排斥を画策したため、国民主義の提唱者・陸実らとともに退学させられた。
薩摩藩は南部の敵だから嫌いだ」
 そんな折、中井弘
(なかいひろし)と出会った。
 薩摩藩出身の志士で、後に京都府知事などを務めることになる、ちょっと変わった男であった。
「そんなに薩摩人は嫌いか?」
 余は中井は好きであった。
「いや。人にもよる」
 中井には貞子
(さだこ)という娘がいた。
「こんにちはっ。頭、白いですねっ」
「うん。小さいときにケガをしたところが白髪
(しらが)になっちゃったんだ」
 余は若白髪で、四十を過ぎるころには全頭白髪になるのである。
 それにしても、貞子はかわいかった。
 大きくなっていくにつれ、こちらは別の意味で好きになってきた。
 で、十五歳になったので、すかさず結婚した。
 時に余は二十八歳。

 余は「郵便報知新聞」「大東日報」の新聞記者へ経て、外務省、次いで農商務省に入った。
 そこで強面
(こわもて)の初代首相・伊藤博文、元祖「欧米か!」井上馨条約改正の鬼・陸奥宗光らのお気に入りとなり、中国天津(てんしん)領事・パリ日本公使館書記官長・駐朝鮮公使・外務次官・大阪毎日新聞社長・古河(ふるかわ)鉱業副社長・逓信(ていしん)相・内相などを歴任、盛岡市から衆院議員となり、ニコポン主義の使い手・桂太郎とキングメーカー・西園寺公望の「情意投合」を演出(「2006年6月号 総理味」参照)西園寺の後を受け、第三代立憲政友会総裁になったのである。

 また、私生活では貞子と離婚し、郷里岩手出身の新橋(しんばし。東京都港区)の芸者・菅野浅子(かんのあさこ。浅)と再婚している。
 詳述はしないが、いろいろとイロイロがあったのだ。

 大正七年(1918)九月、寺内正毅内閣米騒動で崩壊すると、元老西園寺公望に組閣の大命が下った。
 が、西園寺は、
「与党第一党である立憲政友会の総裁が組閣するのが望ましい」
 として余を首相に推したのである。
 元老のうち、松方正義大隈重信は同調したが、元老のドン・山県有朋は反対した。
は藩閥でも公家でもなく、賊軍南部の出ではないか!」
「いつまでもそんなことにこだわっている時代でもあるまい」
 結局、山県が折れ、余は組閣したのである。
 日本史上初の本格的政党内閣の誕生であった。

●原敬内閣閣僚(1918.9/当時)
大臣名 氏 名  備 考
総 理 原 敬 政友会総裁・衆院議員
…平民宰相
外 務 内田康哉 外交官・子爵
内 務 床次竹二郎 政友会・衆院議員
大 蔵 高橋是清 政友会・貴院議員
陸 軍 田中義一 陸軍中将・長州閥
海 軍 加藤友三郎 海軍大将・条約派
法 務 原 敬 (兼任)
文 部 中橋徳五郎 政友会・衆院議員
農商務 山本達雄 政友会・貴院議員
逓 信 野田卯太郎 政友会・衆院議員
官 長 高橋光威 政友会・衆院議員
法制局長官 横田千之助 政友会・衆院議員
※ 原横死後は内田が首相兼任。
※ 途中で元田肇鉄道相(新設)・山梨半造陸相
・大木遠吉法相が入閣。

 国民は余の首相就任を歓迎した。
「爵位もない平民の男が総理になったんだってよ」
「まさしく平民宰相だー」
「史上初の庶民派総理に期待していいのかー」

 余は国民の期待にこたえるため、

 1.教育改革⇒大学・高校の増設等
 2.産業・貿易の振興⇒港湾施設の整備等
 3.交通通信機関の整備⇒地方道路・ローカル線の拡張等
 4.国防の充実⇒八八艦隊の実現等

 といった四大政綱を掲げ、積極政策を推し進めた。
 国際的にはベルサイユ条約に調印し、国際連盟に加盟、常任理事国になった一等国として各国と協調外交を行った
(一部の国を除く)
 また、高まる普選運動の声を受けて選挙法を改正、納税資格を十円から三円に緩和、中選挙区制から小選挙区制へと移行させた。

 結果は選挙に出た。
 大正九年(1920)の第十四回衆議院議員総選挙は、国民の圧倒的支持を受けて絶対多数を獲得、我が立憲政友会の大勝であった
(政友会二七八議席。憲政会一一○。国民党二九)

 余は、藩閥との協調や貴族院工作も忘れなかった。
 特に事実上の最高権力者・山県有朋とは争わないことを心がけた。山県を無視しては、はかどることもはかどらなかったのである。
 だから余は、山県が宮中某重大事件
(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)右翼の攻撃を受けた時も、これをかばった。
 山県皇太子裕仁親王と、その婚約者・久邇宮良子女王
(くにのみやながこじょおう)との婚約解消を画策していた。
「お宅には色盲の遺伝があるそうですな」
「は?」
「そのような家のお嬢が、果たして皇太子妃にふさわしいでしょうか? 婚約のこと、御辞退なされてはいかがかな?」
「そ、そんな……」
 このことが右翼の巨頭・頭山満
(とうやまみつる)の耳に入った。
 頭山は激高した。
「なんてことだ! 山県皇太子殿下の意に反する国賊だっ!」
 彼は国竜会のボス・内田良平
(うちだりょうへい)、国家主義のカリスマ・北一輝らとともに猛反発、あろうことか山県を屈服させ、婚約解消を阻止してしまったのである。
(あの山県が負けるとは……)
 余は信じられなかった。
 余は右翼というものを甘く見ていた。

 頭山らは山県を撃沈すると、これをかばった余にも目をつけた。
は生意気だ」
 余が皇太子に欧行を勧めたのも気に食わないらしかった。
「欧行などとんでもない!」
皇太子殿下を魔界へ向かわせる気か!」
も国賊だ! 葬り去れ!」
 余はそんなつもりで欧行を勧めたのではなかった。皇太子にはもっと世界を見ていただきたかっただけなのに……。

 そう。そのころからであった。あることないことさまざまな疑獄事件が暴露され始めたのは――。
 国民は熱しやすく冷めやすかった。
は藩閥の親玉である山県とつるんでいるそうな」
平民宰相は宰相になった時点で平民ではなくなったのだ」
「何が学力増進だ。何が地方の活性化だ。よく考えてみれば、学校も道路も鉄道も軍拡も、みんな金持ちの懐を豊かにする政策ばかりではないか! だまされるなっ!」
 余は次第に人気を失っていった。
 違うのだ! すべてはあなた方のためにやっていることではないか! なぜもっと先のことを見てくれないのだ!
 余は叫びたかった。
  だまされているのは、あなたたち国民ではないかっ!

「国賊!」
「金持ちお友達内閣!」
「ニセ平民! エセ庶民派!」
 余は命の危険を感じるようになってきた。
 脅迫状が届いたり、政友会のまとめ役・岡崎邦輔
(おかざきくにすけ)らのように、
「閣下、御注意を。この道は避けたほうがよろしいかと――」
 と、リアルな暗殺情報をもたらして来る者もあった。
 それでも余は毅然
(きぜん)としていた。
「下手な警戒は無用だ。運は天に任せておけばいい。余は間違ったことは何もしていないのだ。今にわかる。改革の成果が現れれば、国民も分かってくれるであろう」
 でも、いつ殺されてもいいように遺書だけは書いておいた。

 大正十年(1921)十一月三日夜、余は宮内相・牧野伸顕(まきののぶあき。大久保利通の次男)らとともに駐日ベルギー大使館を訪れた。
 この建物は旧大久保利通邸であったため、牧野は非常に懐かしがり、あちこち余らを案内してくれた。
 奥座敷まで来ると、牧野は言った。
「ここは父が遭難したときに遺体を置いた部屋です」
 余は大久保が不平士族に暗殺されたことを思い出した。
「そうか――」
 余はしばらく、その薄暗い部屋から目をそらすことができなかった。

 翌日、余は妻の浅子と夕食をとった後、政友会京都支部大会に出席するため東京駅へ向かった。
「忘れ物ですよ」
 浅子が追いついてきて、余に薄茶色の中折帽をかぶせてくれた。
 それは特別にパリであつらえさせた愛着のある帽子であった。
「行ってくる」
 浅子はきれいであった。

 京都行きの列車は午後七時三十分発であったが、余がそれに乗ることはなかった。
 主を失った中折帽は、改札口付近に舞い落ち、野次馬によって踏みしだかれた。

●原敬内閣略年表
西暦 年号 できごと
1918 大正七 9/寺内正毅内閣総辞職、原敬内閣発足(初の本格的政党内閣)。10/シベリア派遣軍不拡大を決定。11/武者小路実篤ら「新しき村」を設立。12/大学令公布。吉野作造ら、黎明会を結成。
1919 大正八 2/中学校令改正公布。-/全国に普選運動拡大。3/朝鮮で三・一独立運動(万歳事件)。4/都市計画法・市街地建物法・地方鉄道法・関東庁官制・関東軍司令部条例公布(林権助初代関東長官・立花小一郎関東軍司令官)。5/中国で五・四運動。選挙法改正(十円以上の納税者→三円以上の納税者に選挙権)。6/皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)、久邇宮良子女王と婚約。西園寺公望・牧野伸顕ら、パリでベルサイユ条約・国際連盟規約に調印。8/大川周明・北一輝ら、猶存社を結成。友愛会、大日本労働総同盟友愛会と改称。9/斎藤実朝鮮総督暗殺未遂事件。-/戦後景気。10/第一回帝展開催。
1920 大正九 1/日本、国際連盟に加盟し、常任理事国に就任。3/ロシア・ニコラエフスクで尼港事件(〜5/)。恐慌始まる。平塚雷鳥(らいてう)・市川房枝ら、新婦人協会を結成。5/東京で第一回メーデー。第十四回衆院総選挙で政友会大勝。鉄道院を鉄道省に昇格(元田肇初代鉄相)。7/八・八艦隊案、衆院通過(8/建造予算追加)。8/東京地下鉄設立。10/第一回国勢調査実施。11/尾崎行雄・犬養毅ら、政界革新普選同盟会を結成。東京市道路工事疑獄事件。12/山川均・大杉栄ら、日本社会主義同盟を結成。宮中某重大事件。-/労働争議・スト等続発。職業紹介所を全国に新設。
1921 大正十 2/満鉄不当買収問題。野党提出の普選法案、衆院で否決。2/住友総本店、住友合資に改組。3/裕仁親王欧行(〜9/)。3/珍品五個問題。4/米穀法・市制町村制改正法・郡制廃止法公布、メートル法採用。堺真柄ら、赤瀾会を結成。5/東方会議開催。8/三菱銀行設立。9/朝日平吾、安田善次郎を暗殺。10/大日本労働総同盟友愛会、日本労働総同盟と改称。11/中岡艮一、東京駅で原敬を暗殺、内閣総辞職。

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