2.中岡艮一の独白

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長崎市長射殺事件
1.原敬の独白
2.中岡艮一の独白

 よく間違えられるが、おれの名は「良一」ではなく「艮一」である。
「良一君」
 人に呼ばれて、
「リョウイチじゃねえ。コンイチだ」
 と、おれが否定すると、人はみな納得したような顔をした。
(確かにお前は「良一」ではないな。お前のそのツラが「良一」であろうはずがない)
 どうせ心の中ではみんなそう思っていたのであろう。

 おれの悪ガキぶりには父も母も手を焼いていた。
「お前のような悪ガキはうちの子じゃねえ!」
「どこへでも行っておしまい!」
 父はおれと違って優秀であった。
 父は天下の古河鉱業が経営する足尾銅山精錬所
(せいれんじょ)で主任をしていた。

 幼いころ、父はよく足尾銅山の話をしてくれた。
足尾銅山は古河鉱業以下を率いる古河財閥の心臓なのだ。財閥の創始者・古河市兵衛
(いちべえ)はこの銅山で巨万の富を築き『銅山王』とあがめられていた」
「ふうん。古河市兵衛って人はそんなに偉い人なのか?」
 父は首を横に振った。
「とんでもない! 金持ちというものは、良いことは自分の手柄にし、悪いことは部下の責任にするものだ。断じて偉いわけではない」

 当時、足尾銅山への風当たりは最悪であった。
 栃木県選出の嵐の代議士・田中正造
による足尾鉱毒事件の告発、その後の度重なる足尾労働争議によって大混乱に陥っていたのである。
 大衆は口々に叫んだ。
足尾銅山は鉱毒の根源だ!」
「毒の垂れ流しを止めさせよ! それができなければ採掘自体を止めさせよ!」
「カネのためなら人を殺してもいいのかーっ!」

 古河財閥二代目当主・古河潤吉(じゅんきち)は困惑した。
「いくら言われても急に止められるはずがない。坑夫にも生活がある」
 潤吉は市兵衛の実子ではなく養子である。彼の実父はかの条約改正の鬼・陸奥宗光
「しかし、大衆の声を無視することはできません」
 この潤吉を一時期副社長として支えていたのが、陸奥と親交のあった原敬であった。
「大衆は多数派です。対してうちの坑夫は少数派です。やむを得ず二者択一を迫られた場合は、多数派の意見を採ることが民主主義の大原則ではありませんか」
「うん。仕方あるまいな」

 古河鉱業経営陣は坑夫の待遇を悪化させた。
 そうすることで彼らの離職をたくらんだのである。
 坑夫たちは激怒した。
「なんでおれたちにこんなにつらく当たるんだ?」
「おれたちを辞めさせたいってか!」
「辞めてたまるかー! おらたちには生活がかかっているんだー! 左団扇
(うちわ)で毎日毎日贅沢(ぜいたく)している経営陣とは違うんだー!」
「おいらたちは悪くない! 責任取るべきは経営陣ではないかーっ!」
 こうして暴動は頻発したのであった。

 おれは父に質問した。
「――ってことは、悪いのはフルカワとハラってことか?」
 父は否定しなかった。
「そうだ。正確に言えば富豪ども全体だ。日本中の金持ちはそうやって似たようなことをしてのし上がってきたのだ。ヤツらは人の命なんか何とも思ってはいない。坑夫や住民が何人死のうが、自分たちのカネのほうが大切なんだよ」

 まもなく、父は経営陣と坑夫側との板ばさみになって辞職に追い込まれた。
 東京市
(東京都)土木課に転任させられたが、形ばかりですぐ辞めさせられた。
 おかげで家は貧乏になり、おれは小学校すら中退させられた。
 父は泣いて謝った。
「すまない。おれが貧乏になっちまったせいで本当にすまない」
「気にしてないよ。どうせおれは勉強が嫌いな悪ガキだから」
 おれは喜んでみせた。
「それに親父のせいじゃないよ。悪いのは親父を辞めさせた金持ちだ。みんな金持ちが悪いんだ! おれは勉強なんかしない。絶対にしない! 勉強なんかしたところで、人の心を失った醜い金持ちに成り果てるだけじゃねーかっ!」

 おれは印刷所の徒弟になった。
 帰宅すると、父と母はいつもけんかしていた。
 そのうちに母は間男と手に手をとって蒸発してしまった。
 父はヤケクソになった。酒びたりになった。体を壊して動けなくなってしまった。
 おれは印刷所に行かなくなった。
「すまないな。おれのせいで。お前には苦労ばかりかけた」
 父は泣いてばかりいた。
 おれは泣かなかった。
「親父のせいじゃねー! こうなったのもみんな自分勝手な金持ち野郎どものせいだっ!」

 父は死んだ。
 弟までやせ衰えてきた。
「兄ちゃん、腹減った……」
「ごめん。仕事も見つからないし、カネもねーんだ……」
「金持ちのところには、たくさんあるんだってね」
「そうだ! 金持ち野郎どもからかっぱらってきてやる!」
「ダメだよ、兄ちゃん……。悪いことをしちゃあダメだよ……。兄ちゃんは本当はいい人なんだから……」
 弟は最期にそう言い残して死んでいった。
 それでもおれは泣かなかった。
 決して決して泣くことはなかった。
 少しだけ、隠れてこっそり泣いた。

 おれは天涯孤独になった。
 国鉄山手線大塚駅の雑役夫になった。
 駅にはいろいろな人がやって来た。
 金持ち野郎どもの親子もやって来た。
「坊や。カキ氷食べる?」
「カキ氷はいやー。アイスクリームがいい〜」
「はい、アイスクリーム買って来たよ」
「抹茶だけじゃダメ〜。アンコも載ってなきゃいや〜」
 おれはそんな子供たちを何人かを蹴
(け)っ飛ばしてやった。

 貧乏人の親子もやって来た。
 もの欲しそうな孤児も寄ってきた。
 お恵みしてやる同僚もいたが、おれはあげなかった。
「お前も恵んでやれよ」
 そう言われても、決して決してあげることはなかった。
 誰も見ていないときに、少しだけあげた。

 二年後、おれは転轍手に昇格した。
 上司に橋本栄五郎
(はしもとえいごろう)という男がいた。
 大塚駅の助役であった。世相に詳しい早耳の時事オタクであった。
総理が野党が提出した普選法案を反故
(ほご)にしたそうな」
「宮中某重大事件で山県有朋翁の陰謀が右翼にねじ伏せられたそうな」
皇太子殿下が無事に欧行から戻ってこられたそうな」
安田財閥のドン・安田善次郎
(ぜんじろう)が朝日平吾(あさひへいご)という男に暗殺されたそうな」
「道路工事疑獄や不当買収問題、珍品五個問題などで総理が野党に責められて窮地に陥っているそうな」

 おれは安田の死は気に入ったが、の名が出てきたことは気に入らなかった。
(はおれが目の敵にしている古河財閥の総領だ! 何が平民宰相だ! ヤツのせいでいったいどれだけ多くの貧乏人が泣かされてきたと思っていやがるんだ! どれだけ多くの人々が死んでいったと思っていやがるんだ! 何が庶民派内閣だ! を初め、三井財閥の野田卯太郎
(のだうたろう)逓信相、三菱財閥の山本達雄(やまもとたつお)農商相、日銀高橋是清蔵相、大阪商船の中橋徳五郎(なかはしとくごろう)文相などなど、閣僚はみんな超絶大金持ち野郎どもばっかじゃねーかー!!)
 橋本は言った。
「今の時代、悪いことをしても責任を取ることはしない。昔の武士は腹を切ってお詫びしたものだ。今の政治家どもはダメだ。腹を切る切ると言っていても、結局人のせいにするだけで、実際に切るヤツは一人もいねえ」
 おれはいつか父の言っていたことを思い出した。

『金持ちというものは、良いことは自分の手柄にし、悪いことは部下の責任にするものだ』
(そうだ! いつも泣かされるのは下っ端の人間なんだ! 下っ端の貧乏人にすべての罪をなすりつけて、金持ちだけはぬけぬけと生き長らえていやがるんだっ!)
 おれの中でふつふつと灼熱
(しゃくねつ)の怒りがこみ上げてきた。
 おれは橋本に言った。
「おれは違う。おれは必ずを斬
(き)ってみせる」
 橋本は吹き出した。
「そうか、お前が腹を切るか。たいしたものだな」
 おれはかみしめるようにしてもう一度言った。
「ああ。おれはを斬る!」

 おれはを斬るため、東京駅へ向かった。
 が地方へ向かう時に列車を利用することは上司から聞かされていた。
 おれは何度かを見かけた。
 それでも、なかなか近づくことはできなかった。
 一度、最接近したことがあったが、そのときは先にから声をかけられ、懐に刃
(やいば)を引っ込めた。
「君はここに勤めているのかい?」
「いいえ。ここではなく、大塚駅で転轍手
(てんてつしゅ)をしています」
「そうか。若いが、二十歳前か?」
「十九歳です」
「十九歳か」
 は笑った。
 おれに侮蔑
(ぶべつ)の笑みを残して通り過ぎていきやがった。
(そんなにおかしいか!)
 おれは憤った。
(おれが転轍手であることが、そんなにおもしろいか! おれが貧乏人の若造であることが、そんなにうれしいのかっ! 貴様はいったい誰のおかげでそこまでなれた? あまたの貧乏人の血や汗や涙を踏み台にして、あまたの尊き生命を踏みにじりくさって、ついにはこの国のトップにまで昇り詰めたのではないのかーっ!!)
 おれは懐の刃を握り締めた。
(そうだ! みんな貴様が殺したんだ! みんなみんな貴様のために死んでいったんだー! 今の貴様の醜き栄華のためにーっ!!)
 父の顔が浮かんできた。
 弟の笑顔も浮かんできた。
『ダメだよ、兄ちゃん……。悪いことをしちゃあダメだよ……。兄ちゃんは本当はいい人なんだから……』
 おれは泣いた。
 地面を何度もたたきながら、初めて大衆の面前で号泣した。
 おれは泣きはらした顔を上げると、が去って行った方をにらみつけ、固く心に誓った。
(おれはやる! 絶対に殺
(や)る! 今度会ったときは、必ず貴様の汚濁(おだく)に塗れた人生を終わらせてみせるっ!! 貴様によって無惨に葬り去られた、あまたの人生のために……)

[2007年4月末日執筆]
参考文献はコチラ

※ 中岡は右翼に扇動されたのではないかという説もありますが、この物語では個人的な恨みとしました。

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