1.深草少将の正体 | ||||||||||||||
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遍照(遍昭) PROFILE | |
【生没年】 | 816-890 |
【別 名】 | 良峰(良岑)宗貞・深草少将・花山僧正 |
【出 身】 | 平安京(京都市) |
【本 拠】 | 山城国深草(京都市伏見区) |
【職 業】 | 官人・僧・歌人(六歌仙・三十六歌仙) |
【役 職】 | 蔵人→左兵衛佐→左少将 →蔵人頭→権僧正→僧正 |
【位 階】 | 従五位下→従五位上→法眼和尚位 |
【 父 】 | 良峰(良岑)安世 |
【兄 弟】 | 良峰(良岑)木蓮・長松・清風・高行 ・遠視・晨直・晨省・晨茂・行振 |
【 子 】 | 素性 |
【 師 】 | 円仁・円珍 |
【 師 】 | 仁明天皇 |
【仇 敵】 | 小野小町 |
【墓 地】 | 元慶寺(京都市山科区) ・欣浄寺(京都市伏見区) ・小町寺(京都市左京区) ・二ツ森(秋田県湯沢市) ・美男塚(山形県米沢市) |
深草少将は名前ではない。
山城深草(京都市伏見区)に住んでいた少将という意味である。
本名は良峰宗貞(よしみねのむねさだ。良岑宗貞)。出家して遍照(へんじょう。遍昭とも)といった。有名な六歌仙の一角をなした、あの男のことである。
宗貞の父は良峰安世(やすよ。良岑安世)といった。
平安京造営者・桓武天皇の皇子で、大納言まで昇進したエリート官僚である。
博学であった安世は、異父兄・藤原冬嗣らと日本最初の勅撰儀式書『内裏式(だいりしき)』を選上、平安時代初期の正史『日本後紀』や、勅撰漢詩文集『経国集』編集にも携わる一方、狩猟を趣味とし、音楽にも堪能(たんのう)であった。
延暦二十一年(802)、安世は良峰姓を賜って臣籍降下された。宗貞が生まれる十四年前のことである。したがって、宗貞が皇族であった時期はないが、桓武天皇の孫という貴公子であることは変わりない(「怨念味」「怨霊味」参照)。
宗貞は幼いときから言い聞かされたことであろう。
「おまえは帝都を造った偉大なる帝王の孫なのだ」
宗貞はこう問うたかもしれない。
「じゃあ、父さんもボクも天皇になれるかもしれないの?」
安世は笑った。
「なれないさ。父さん、もう皇族じゃないんだから」
桓武天皇は子福者であった。総勢三十六人の子女をもうけた。
その皇子・嵯峨天皇は、さらに輪をかけて子沢山であった。最低五十人の子女を世に送り出した(「告発味」参照)。
そのため、皇位継承からあぶれた数多くの皇子孫には、源(みなもと)・平(たいら)・在原(ありわら)・良峰(よしみね)などの姓を与えられて臣下にされたわけである。いったんふるい落とされた彼らが皇族に復帰し、天皇になることなど、あり得るはずがなかった。
「なんだ。なれないのか」
がっかりする宗貞に、安世が言った。
「でも、出世ならできるよ。父さんももうすぐ大臣だ」
宗貞は希望を持った。
が、安世は大臣に昇進することなく、天長七年(830)に死んだ。宗貞十四歳の年であった。