2.小野小町との出会い | ||||||||||||||
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宗貞は承和十一年(844)二十九歳の時、蔵人(くろうど。蔵人所職員)として出仕した(「詐欺味」参照)。
翌年には従五位下を賜り、左兵衛佐(さひょうえのすけ)・左少将(さしょうしょう)を経て、嘉祥二年(849)三十四歳で蔵人頭に昇進した。つまり、天皇の筆頭秘書に昇り詰めたわけだ(「古代管制」参照)。
時の帝は、嵯峨天皇の第一皇子・仁明天皇(にんみょうてんのう)。
宗貞より六歳年上の、温和で聡明な文学壮年であった。天皇は彼を信頼し、彼は天皇を尊敬していたと思われる。
ある年、五節舞(ごせちのまい)があった。
五節舞とは、豊明節会(とよのあかりのせちえ。「泥酔味」参照)で催された女舞のことである。
舞姫には、公卿や国司の娘の中から美女ばかりが選ばれるので、役人たちに人気があった。
宗貞も、毎年この女舞を楽しみにしていた。後には出家する彼も、それ以前は「すけこまし」で通っていた男である(在原業平ほどではないが……)。
「今年はどんな娘が出てくるのかな?」
ただ、毎年観ているとどうも目が肥えくるようで、最近はちょっとやそっとの美女では満足できなくなってきていた。
「お!」
と、初め思っても、違う角度から見るとそれほど美人じゃなかったり、顔がこわばっていたり、舞がぎこちなかったり、ドジにも転んだり、突然妖怪(ようかい)のように笑ったり、舞っているうちに悪い面ばかりが目に付いてしまい、興ざめてくるのである。
「近年は不作だ」
しかし、その年は豊作であった。
史上最高の美女が妖艶(ようえん)に舞い始めたのである。
人々はうわさした。
「だれあれ?」
「なんでも野宰相(やさいしょう)小野篁(おののたかむら)卿の孫娘で、小町というそうな」
「あの豪胆で知られた野宰相の……。それでか。えらく堂々と舞っている」
「舞いもうまいうまい」
「父親の名は確か小野良真(よしざね)といったかな? あれ、良実だっけ?」
「それにしても、なんというぶったまげた美人だ」
宗貞も、ずっと見とれていた。
(時間よ、止まるがいい! 何もかも忘れて、あの乙女の姿を、ずっとずっと見続けていたい……)
『古今和歌集』にあり、『小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)』にも入っている彼の歌は、このときの衝撃を歌ったのであろう。
天つ風雲の通ひ路吹き閉じよ をとめの姿しばしとどめむ
が、時間は止まることはなかった。
やがて舞は終わり、小町は去っていった。
「ああ、終わってしまった……」
吹き付けてくる風は冷たかった。宗貞はこの世のすべてが終わってしまったかのように嘆いた。
かといって、追いかけて小町を「すけこまし」に行くわけにはいかない。
優先権は帝、つまり仁明天皇にあるのである。
宗貞はちらと仁明天皇のほうを見た。
仁明天皇は上気したような顔をしていた。ポッポと湯気まで立ち上っていた。
(さては、帝もお気に入られたな)
そうでないようにと、強く願った。
しばらくして宗貞は、小町が仁明天皇の更衣(こうい。愛人)になったと聞かされた。
「やっぱり、帝も小町に見とれていたんだ」
宗貞は悲しくなった。
悲しみのあまり、ますます方々で「すけこまし」に拍車がかかり、いつのまにやら妻子もできてしまった。