1.フ ナ | ||||||||||||||
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北村幽庵 PROFILE | |
【生没年】 | 1648-1719 |
【別 名】 | 北村道遂・幽安・堅田祐庵・柚庵 |
【出 身】 | 近江国(滋賀県) |
【本 拠】 | 近江堅田(滋賀県大津市) |
【職 業】 | 豪農・茶人・美食家・作庭師 |
【 師 】 | 藤村庸軒(千宗旦四天王) |
【作 品】 | 幽庵焼(幽庵漬) 居初氏庭園(大津市) |
【墓 地】 | 堅田河原畑墓地(大津市) |
街道で老人が重そうな桶(おけ)を担いでいた。
重いのか、足元がよろついていた。
「おっとっと」
とても見ちゃいられなかった。
旅人が思わず声をかけた。
「手伝いましょうか?」
老人は笑った。
「ありがたい。重すぎて家までとても一人で運べやしないわい」
旅人は桶の片棒を担いであげた。
傾いたときに桶の中身がちらと見えた。大きなフナがたくさん泳いでいた。
「有名なゲンゴロウブナですね?」
ゲンゴロウブナ(ヘラブナ)は琵琶湖特産だが、江戸時代より各地の湖沼に放たれるようになった。関東地方には二代将軍・徳川秀忠が放したのが始まりだという。
「うまいんですかね?」
「ふふーん。フナは煮ると骨がないみたいにやわらかくなるんじゃよ」
そもそもフナの語源は「骨なし」であるという。
それが、
「骨なし」→「骨にゃー」→「ふにゃー」→「ふな」
と、転じたものだといわれている。
「うへっ! うまそうっすなー」
旅人がツバを飲み込んだのを見て、老人が言った。
「家に着いたら御馳走(ごちそう)しましょう」
「いいんですか〜。せびったみたいでごめんなさいね。ありがとうございます〜」
しめしめである。
近江八景 |
三井(みい)の晩鐘 石山(いしやま)の秋月 堅田(かたた)の落雁 粟津(あわづ)の晴風 唐崎(からさき)の夜雨 瀬田(せた)の夕照 矢橋(やばせ)の帰帆 比良(ひら)の暮雪 |
日が西に傾き、雁(がん)が空から舞い降りるのを見て、旅人は思い出した。
「そういえば、このあたりは堅田ですか?」
「そうじゃよ」
堅田の落雁は近江八景の一つである。
旅人はまた一つ思い出した。
「堅田には有名な食通がおられるそうですね。一口何かを食すれば、たちどころにその原材料や産地を言い当ててしまうというとんでもない美食家が――。確か本職は豪農で、茶人でもあり、その師は千宗旦(せんのそうたん)四天王の一人・藤村庸軒(ふじむらようけん)――」
「ほー。よく御存知ですな」
老人は意味ありげに笑った。
話しているうちにいつしか老人の豪邸の前まで着ていた。
「これがあなたの家……!?」
旅人がその大きさに驚いていると、邸内のかなたから使用人が駆け寄ってきた。
「だんな様。あれあれ、こんな重いものを。おっしゃってくださればお運びいたしましたのに」
旅人はますます驚いた。
「だ、だんな様……!? もしや、まさか、あなた様は……」
老人は正体を明かした。
「私が近江堅田にその人ありといわれた高名な美食家・北村幽庵です。さっそくフナを調理させますので、しばしお待ちを」
「ひえー!」
千宗旦四天王 |
山田宗ヘン(やまだそうへん。四方庵) 藤村庸軒(ふじむらようけん。反古庵) 杉木普斎(すぎきふさい。光敬) 三宅寄斎(みやけきさい。亡羊) |
※ ヘンは彳+扁 |
しばらくして、台所からフナを調理する音が聞こえてきた。
旅人、待ちきれずにちょっとのぞいてみた。
料理人がフナを裁いていたが、なぜかまな板が何枚も置いてある。
「これ、何枚も使うんですか?」
料理人が答えた。
「ええ。うろこを取る時のまな板、身を切る時のまな板、ほかの材料を切る時のまな板など、全部取り替えているんです。生臭さが移りますからね」
「へえー。食通はやっぱり違いますねー」
旅人は感心して席に戻った。
「お待たせしました」
一時ほどして、旅人の前にフナの煮しめがほんの少しだけ出てきた。
「いっただっきまーす」
旅人ははしでそれを取ると、ゆっくりと口に入れた。ほこほことかんだ。そして、夢見心地で歓喜した。
「うんめぇー! とろけるーん!」
旅人はあまりのうまさに横柄になった。もっと欲しくて思わず言ってしまった。
「これだけですか?」
「ええ、これだけです」
「えーっ。さっきの桶にはたくさん入ってたじゃないですかぁ〜」
すると幽庵が理由を言った。
「お客様にはたくさんのフナの中から最高においしそうなものだけを調理させて差し上げました。それ以上のものは、もうございません」