3.戦うぜ  〜 板櫃川の戦

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北朝鮮は暴発するか?
1.ムカつくぜ 〜 藤原広嗣の左遷
2.キレたぜ 〜 藤原広嗣の怒り
3.戦うぜ 〜 板櫃川の戦

 天平十二年(740)八月、藤原広嗣は朝廷に玄ム下道真備を排除するよう要求した上表文を提出、その返答を待つことなく九州で反乱を起こした。
 反乱軍の数は、一万五千人ほどと伝えられている。この数は、島原の乱天草四郎軍二万八千人
(三万八千とも)には及ばないが、西南戦争西郷隆盛軍一万三千人、佐賀の乱江藤新平軍一万二千人をも上回る大反乱軍である。

「九州で広嗣が謀反を起こしました! 反乱軍の数、一万数千!」
 九月初め、報告を受けた朝廷は大混乱に陥った。
 何しろ壬申の乱以来七十年余り、大きな反乱も起きず平和ボケしていた時代のできごとである。
 感覚はちょうど、第二次世界大戦後六十年余りを経た現在の状況と似ているであろう。今突如として北朝鮮人民軍一万数千人が新潟辺りに上陸したとすれば、それこそ大騒動である。

 中でも聖武天皇は特にびびっていた。
「朕
(ちん)は逃げるぞ! 少しでも安全な東国へ逃げるぞ! 今日にでも明日にでも発つぞ!」
 そうは言ったものの、謀反人をやっつけなければ、逃げても追いまわされるだけである。
 そのことに気づいた聖武天皇は、参議・大野東人
(おおののあずまひと)を持節(じせつ)大将軍に、紀飯麻呂(きのいいまろ)を副将軍に、佐伯常人(さえきのつねひと)と安倍虫麻呂(あべのむしまろ)を勅使に任じ、これに東海道東山道山陰道山陽道南海道諸国からかき集めた兵一万七千人をつけて西下させた。

「そうだ。神仏にも必勝を祈願せねば」
 次いで伊勢神宮に治部卿・御原王
(みはらおう。三原王)を遣わしてお参りさせ、畿内諸国に仏像を作らせてお祈りさせる。
「これで安心ですな」
 諸兄は言ったが、聖武天皇は安心したわけではなく、十月末に東国へ逃避行を開始する。伊賀伊勢美濃近江を回り、その後は山城恭仁京近江紫香楽宮摂津難波宮へ転々と遷都することになるのである。

 一方、広嗣は全軍を三つに分け、自らは五千の兵を率い、弟の藤原綱手(つなて)に五千、側近の多胡古麻呂(たごのこまろ)に数千を託し、それぞれ筑前鞍手(くらて。福岡県直方市)豊後国東(くにさき。国東半島)豊前田川(たがわ。福岡県田川市)の三方面から兵を募りながら豊前板櫃鎮(いたびつのちん。北九州市小倉北区)へ向かった。

 広嗣は怒っていた。
「征討軍の大将軍は大野東人だと!」
 東人は広嗣の後任として大養徳
(やまとのかみ)に任じられ、この年参議に昇進した男である。
(左遷されなければ、おれが参議になるはずだったのだ!)
 そんな男には絶対に負けるわけにはいかない。

 板櫃鎮は、関門海峡に臨んだ要塞(ようさい)である。
 ここを突破されては、朝廷軍の九州進出を許してしまうことになる。
 広嗣は思った。
(何が何でも板櫃で食い止め、東人を討ってやる!)

 が、東人は逆のことを考えていた。
「是が非でも板櫃を落として九州へなだれ込むのだ!」
 朝廷軍の進軍は速かった。
 広嗣に先んじて関門海峡を渡海、たちまち板櫃鎮を激しく攻め囲んだ。
「ゲッ、もう来やがった!」
 鎮の兵たちは奮戦したが、大軍にはとてもかなわず、鎮の少長
(副官)・凡河内田道(おおしこうちのたみち)らは戦死、鎮の大長(長官)・三田塩籠(みたのしおこ)らは矢傷を負って逃走し、まもなく裏切りにあって殺された。
 勢いに乗った朝廷軍は、登美
(とみ。福岡県吉富町?)・京都(みやこ。福岡県苅田町)の鎮も落とし、守兵千八百人あまりを捕縛、多数の武器を押収した。
 東人は見切った。
「大勢は決した!」

 広嗣は舌打ちした。
「ちっ、板櫃は落とされたか」
 筑前遠賀郡
(おんがぐん。福岡県遠賀郡)まで着ていた広嗣は、巻き返しをはかるべく、板櫃川西岸に陣を取った。
 その数一万。豊後路の別働隊・綱手軍は遅れて到着したと思われるが、田川路の別働隊・多胡古麻呂軍は未だ到着していなかった。
 朝廷軍はその対岸に安倍虫麻呂・佐伯常人ら率いる六千人が布陣、敵軍に投降を勧めるビラをまいた。

 広嗣の兵たちは動揺した。
広嗣は戦いに勝ったとしても、ケチだから恩賞くれないんだってよ」
「地上の楽園を建設しようなんて、真っ赤なウソなんだってよ」
「謀反人の広嗣に荷担し続ける者は斬罪
(ざんざい)に処すだってよ」
「妻子も重罪だってよ」
「そりゃ、かなわん」
「今のうちに降参すれば、おとがめなしだってよ。褒美もくれるんだってよ」
「ほんとか!」
 兵たちは争うように投降した。我先にと川を渡った。

 広嗣は激高した。
「逃げるんじゃねー! 逃げるヤツは射殺すぞ!」
 逆効果だった。兵たちはますます怖がった。徒党を組んで逃げていった。
「いやだー! こんな凶暴な大将と一緒に戦うなんて、ごめんだー!」
「おら、まだ死にたくねー!」
「さいなら〜!」

 広嗣は追い詰められた。この劣勢を挽回(ばんかい)するには、敵の大将を討ち取るしかなかった。彼は川の中ほどまで進み出ると、敵軍に向かって呼びかけた。
「勅使が来ているそうじゃねーか! 出てこい! おれと一騎打ちの勝負をしろ!」
 佐伯常人が出てきた。
「われが勅使ぞ」
 でも、この状況で一騎打ちの勝負をするほど、常人は愚かではなかった。広嗣に言ってやった。
「すでに虫の息になっている敵将と一騎打ちをすることに、何の利があろうか?」
 そして、すぐに引っ込んだ。遠巻きにしてやった。

 広嗣はますます追い詰められた。一変、言い訳して謝ることを考えた。
「おれは朝廷に対して反乱を起こしたわけではない! 玄ム真備、この二人の奸臣
(かんしん)を排除してくれるよう、お願いに来たのだ! こうやって頭を下げに来ただけだ!」
 常人はしかり飛ばした。
「これだけ戦っておきながら、何が謝罪か! 投降する気があるなら、もっと早く投降すべし!」

 広嗣はあきらめた。
「突撃せよ!」
 残り少なくなった全軍に命じた。
 広嗣軍はしぶしぶ川を渡った。数も少なくなって、まるで覇気がなかった。
 朝廷軍は石弓で砲撃を加えた。石弓とは、大きな石を飛ばせるように改良した弓である。
 岩のような石の雨が、広嗣軍を襲った。兵たちは慌てふためいた。
「ふげっ!」
「痛ったぁ〜。何すんの〜!」
「斬
(き)るな! わしは味方じゃ! 敵はあっち!」
 広嗣軍は壊滅した。
 板櫃川は血の海と化し、死者や負傷者の舟で埋め尽くされた。

「負けたぜ」
 広嗣は敗北した。弟の綱手に弱音を吐いた。
「何もかも終わりだ」
 綱手は励ました。提案した。
「兄者、新羅に亡命しましょう」
新羅か……」
 広嗣の目に、かすかな光が指した。
 新羅は当時、日本と仲が良くなかった。そのため、朝廷に反旗を翻して自分を快く受け入れてもらえるかもしれなかった。
「それしか方法はあるまい」

 広嗣は決断した。
 知駕島
(ちかのしま。値嘉島。長崎県五島市)から出航し、耽羅島(とむらのしま。韓国・済州島)に渡ったが、強風のため接岸できず、上陸できなかった。もたもたしているうちに知駕島まで吹き戻されてしまった。
「バカな!」
 知駕島では、朝廷軍の追っ手が待っていた。懸賞目当ての島民たちも喜んで待ち構えていた。
「おかえり!」
 広嗣は嘆いた。頭を抱えた。絶叫した。
「おれは大忠臣だ! なぜ神仏はここまでおれにアダをなすのだぁー!!」

 広嗣は同島長野(ながの。長崎県佐世保市)にて、進士(役人見習い)・安倍黒麻呂(くろまろ)という者に捕らえられた。十月二十三日のことである。
 東人はこのことを朝廷に報告、聖武天皇からその処分を任せられた。

 十一月一日、広嗣は綱手らとともに処刑された。処刑地は鏡神社(佐賀県唐津市)といわれている。享年は不明だが、三十には達していなかったであろう。綱手はまだ十代だったかもしれない。
 この乱における処分者は、死刑二十六名、没官
(もっかん。財産没収の上奴隷化)五名、流刑四十七名、徒刑三十二名、杖刑百七十七名に及んだ。
 流刑者の中には、反乱には加わらなかった広嗣の弟たちも含まれていた。
 ここに式家は衰退し、藤原氏は息を潜め、しばらくは橘諸兄玄ム下道真備政権が継続するのである
(「 辞任味」参照)

[2003年2月末日執筆]
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参考文献はコチラ

● 藤原広嗣の弟たち

兄弟順 名 前(よみかた) 乱の処分→赦免後の官職→最終官位(享年)
次男 良継(よしつぐ) 伊豆へ流刑→少判事→内大臣・従二位(62歳)
三男 清成(きよなり) 処分不明→無職(62歳)
四男
五男 田麻呂(たまろ) 隠岐へ流刑→無職→右大臣・従(正)二位(62歳)
六男 綱手(つなて) 広嗣とともに死刑
七男  
八男 百川(ももかわ) 処分なし→参議・式部卿・中衛大将・従三位(48歳)
九男 蔵下麻呂(くらじまろ) 処分なし→参議・大宰帥・従三位(42歳?)

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