1.仁義なき戦い | ||||||||||||||
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赤松満祐 PROFILE | |
【生没年】 | 1373-1441 |
【別 名】 | 性具・三尺入道 |
【本 拠】 | 二条西洞院赤松邸(京都市中京区) ・播磨白旗城(兵庫県上郡町) →坂本城(兵庫県姫路市) →城山城(木山城) |
【職 業】 | 武将 |
【役 職】 | 侍所所司・播磨備前美作守護 |
【 父 】 | 赤松義則 |
【叔父母】 | 赤松時則・満則・持則・義祐・祐秀 ・女(細川持之室) |
【 弟 】 | 赤松祐尚・則友・義雅・則繁 ・直操・則槃 |
【 子 】 | 赤松教康・女(足利義教侍女) ・鉄船 |
【主 君】 | 足利義持・義教 |
【没 地】 | 城山城 |
愛人がパパにねだっていた。
「ねえ」
「何だい?」
「ちょうだい〜ちょうだい〜」
「何を?」
「土地〜土地〜」
「どこの?」
「アイツの土地〜」
「アイツか」
「そう、アイツの〜」
「アイツは醜い」
「そしてチビ」
「おまえはかわいい」
「はずかしいです〜」
「決定! アイツの土地はおまえの土地!」
「やったー!」
愛人といっても女性ではなく、赤松持貞(あかまつもちさだ)というオトコであった。
そしてパパとは、室町幕府四代将軍・足利義持。
応永三十四年(1427)九月、播磨・備前・美作三か国の太守、赤松義則(よしのり)が七十歳で没した。
遺領は嗣子の赤松満祐が相続するものと思われていたが、将軍義持がそうさせなかった。
「播磨は御料国(将軍直轄領)とし、赤松持貞を代官とする」
持貞は赤松本家ではなく分家筋である(「赤松氏系図」参照)。
満祐は納得いかなかった。
「播磨は先祖代々赤松本家の領国。どうか播磨召し上げだけはお許し下さい」
義持は許さず、同じ命令を伝えた。
「播磨は御料国とし、赤松持貞を代官とする」
満祐はそれでも拒否した。
義持は三度同じ命令を伝えた。
「播磨は御料国とし、赤松持貞を代官とする」
満祐は三度は拒否できなかった。
うやうやしく使者に頭を下げた。
「ははあ〜」
が、承諾したわけではなかった。
「播磨は我が命である。赤松本家の誇りである。先祖代々一所懸命の地を、上様のオトコへの貢物なんかにされてたまるか!」
満祐は西洞院二条上ル(京都市中京区)にあった赤松邸を焼き払うと、一族郎党を引き連れて播磨本国へ帰り、白旗城(しろはた・しらはたじょう。兵庫県上郡町)に立てこもった。
「上様の命令は理不尽である!仁義というものがまるでない!そんなに欲しければ、力づくで奪ってみろ!」
義持は激怒した。
「それなら備前・美作も召し上げだ!備前は赤松満弘(みつひろ)に、美作は赤松貞村(さだむら)に与える!諸将は謀反人赤松満祐を討て!」
但馬守護・山名時熙(やまなときひろ。巨川常熙)は、
「赤松め、明徳の乱の敵討ちだ(「戦争味」「平和味」「無念味」参照)」
と、攻める気満々だったが、丹後等守護一色義貫(いっしきよしつら)は出兵しなかった。
「悪いのは満祐ではなくて将軍だ。将軍のオトコのために戦うのはゴメンだ」
やがてこの件は意外な結末を迎えた。
義持の側室・高橋殿の告発により、オトコ持貞の不倫が発覚したのである。
「持貞は上様の側室某と密通していますよ」
義持は信じなかった。
「そんなはずはない!」
彼は側室某を呼び出して問いただした。
側室某は開き直って認めた。
「それはもう愛し合っていました」
義持は激怒した。
「許さん!不倫なんて断じて許さーん!持貞め!俺というものがありながら〜」
持貞はただちに切腹させられた。
傷心の義持は、満祐の処分を諸将に丸投げした。
結果、満祐は赦免され、播磨・備前・美作三国を安堵されたのであった。