3.GEDO/外道 | ||||||||||||||
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足利義教のオトコ・赤松貞村には、宮内卿局(くないきょうのつぼね)という娘がいた。
宮内卿局が年頃になると、貞村は義教に勧めた。
「拙者の娘です。上様の側室にどうぞ」
義教は彼女の顔をのぞき込むと、まじまじと見つめて鼻息荒らげた。
「ほう、お父さんの若い頃にそっくりじゃないか。ぐふふ!」
義教は、即、側室にした。
いわゆる「父娘丼(おやこどんぶり)」というヤツであった。
父と娘は両脇(りょうわき)から義教にねだったのであろう。
「ねえ」
「ねえねえ」
「何だい?」
「ちょうだい〜ちょうだい〜」
「ちょうだいだい〜」
「何を?」
「土地ぃ〜」
「土地〜土地〜」
「どこの?」
「アイツの土地〜」
「播磨、備前、美作〜」
「アイツか」
「そう、アイツの〜」
「赤松満祐、坊主名性具(しょうぐ)〜」
「アイツは醜い」
「そしてチビ」
「三尺入道」
「おまえらはかわいい」
「はずかしいです〜」
「ホントのこといわないで〜」
「決定!アイツの土地はおまえらの土地!」
「やったー!」
「ひゃっほー!」
義教は満祐と仲が悪い山名持豊に相談した。
「余は将軍じゃ。三尺入道を失脚させようと思えば、今すぐにでもできる。だが、物騒なことはしたくない。なるべく穏便に事を進めたい。何かこう、自然の流れで三尺入道を失脚させる手だてはないものか?」
満祐と持豊がケンカした永享九年(1437)、なぜか西洞院二条上ルにあった赤松邸は炎上していた。
持豊は提案した。
「たとえば、ヤツの弟を責めるとか」
「則繁(のりしげ)か?」
応永三十一年(1424)、赤松則繁は酒の席で細川持之(ほそかわもちゆき)の家臣・安藤某を斬ってしまったことがあった。
則繁は足利義持から切腹を命じられたが、満祐がかばい通したのである。
「古傷を責め立てるのも手ですが、則繁は貧乏です。取り上げる物がありません。それよりもその兄の義雅(よしまさ)を責めるべきでしょう。義雅は所領をたんまり持っていますから」
「道理である!」
ところが、この企みを聞いてしまった十六歳の少女がいた。
義教の侍女をしていた満祐の娘であった。
(大変!父に知らせなきゃ!)
満祐の娘は父に手紙を書いたが、出す前にそれをなくしてしまった。
(ま、まさか……)
満祐の娘は不安になった。
その晩、満祐の娘の不安は的中した。
義教に呼びつけられたのである。
「何でしょうか?」
義教は普段と変わらない陰気な顔をしていた。
「それはこちらが聞きたいものじゃ。何か余に隠し事をしていないか?」
「別に……」
「では、これはなんじゃ?」
義教が出してきたのは、満祐の娘が書いていた手紙であった。
彼女はとっさに取り戻そうと手を出したが、義教に引っ込められた。
「このことは三尺入道に伝えたのか?」
「いえ、まだ」
「伝えたいであろう?」
「……」
「これを父に渡してほしいであろう?」
「……」
「渡すわけがなーい!」
「……」
「なんじは当面監禁だ。父が失脚したら解放してやろう」
満祐の娘は泣いた。
「父が何か悪いことをしたでしょうか?」
「……」
「私が何か悪いことをしたでしょうか?」
「……」
「悪いことをなさろうとしていたのは、上様ではありませんか!」
「黙れ、小娘!」
義教は笑った。陰気な顔が醜かった。それでも彼は正当化した。
「余は正道を行っている。余の正道に歯向かうヤツラは、すべて悪じゃ」
ほどなくして満祐の娘は自害した。
満祐は娘のために千手観音像を作らせ、円教寺(えんきょうじ。兵庫県姫路市)に十妙院を造立したという。