3.娘との情事

ホーム>バックナンバー2022>令和四年7月号(通算249号)物価味 夜の暴れん坊将軍吉宗3.娘との情事

物価高騰
1.風呂場の女
2.隠し子騒動
3.娘との情事

「おたけ〜」
「ちちうえ〜」
「おたけぇ〜〜」
「ちちうえぇ〜〜」
「おたけたけたけ〜〜〜」
「ちちちちうえうえ〜〜〜」
 ガラガラガラガラ。
「何をしておるのじゃ?」
「ゲッ! 天英院
(「近衛家系図」参照)!!」
「おばさま!?」
「二人して布団をかぶって何をしておるのじゃと聞いておるのじゃ」
「何って、父娘で仲良くしております」
「そ、そうですよっ。それ以上のことなんかしてませんよっ」
「それ以上のことって、何じゃ?」
「そ、それは……」
「おたけ。いいから奥に行ってなさい」
「はーい」
 パタパタパタパタ。
「天英院殿。余とおたけは実の父娘ではありません。おたけの実父は清閑寺煕定です。余にとっておたけは、何の血のつながりもない養女にすぎないんです。別に何してたっていいじゃないですか」
「いいわけありません! 養女といえども娘には違いありません。父娘で乳繰り合っていて世間に示しが付きますか! おたけはどこぞに嫁に出してしまいなさい!」
「それはできません」
「なぜですか?」
「おたけは呪われています。おたけを嫁に出そうとすると、なぜか婚約者が死んじゃうんです」
「……。でしたね」
「そうそう。最初の婚約者は会津藩嗣・松平久千代
(まつだいらひさちよ。松平正容の子)でした。おたけは宝永五年(1708)に久千代と婚約しましたが、その年のうちに久千代は早世してしまいました。二人目の婚約者は有栖川宮正仁親王(ありすがわのみやただひとしんのう)でした。正仁親王とは宝永七年(1710)に婚約して結納まで済ませましたが、まさに輿入れという享保元年(1716)に正仁親王は死んでしまったのです。二度あることは三度あるです。おそらく、次におたけと婚約する男も結婚する前に死んでしまうことでしょう」
「しかし、年頃の娘をいつまでも嫁入りさせないわけにはいくまい」
「別に結婚なんかしなくてもいいじゃないですか! そうそう。結婚しなければならないなんて古い考えですよ! 大丈夫です。養父である余が責任を持っておたけの夫の代わりをしてあげますから。ぐっふっふ」
「ははーん、それが目的なんじゃな?」
「はい?」
「おたけの婚約者が死ぬのは、上様のせいなのじゃな?」
「どういうことですか?」
「上様はおたけの婚約者を呪っておるのじゃ。おたけを結婚させないために。上様はおたけを誰にも盗られたくないのじゃよ」
「ハハハ! バカを申しなさい! 余は現実主義者ですよっ! 呪いなんてまじないみたいなものは好みません!」
「ということは、刺客を送り込んだのじゃな?」
「送り込みませんてっ!」
「紀州藩主や将軍になった時のように、競争相手を次々と亡き者にしていったのじゃな?」
「わけがわからないことを申さないでください!」
「そもそも上様は将軍どころか紀州藩主にもなれる立場ではなかった。それなのになれたのは、刺客を放ちまくって競争相手を全員殺してしまったからじゃろう?」
「濡れ衣ですって! 余の兄たちや尾張藩主たちが相次いで死んだのは単なる偶然ですって!」
「ほー。偶然にしては、ずいぶんたくさん死にましたね〜。本当に一人も殺してないのかのーう?」
「殺してませんてっ!」
「やばいやばい。これ以上の詮索はやめとこ」
「へ?」
「私もまだまだ殺されたくないからの〜う」
「!」
「あ、でももう一つ聞いておこう。上様のたくさんいる妻妾のうち、一人を除いては全員二十歳そこそこで亡くなっておるが、なぜじゃ?」
「なぜかは存じませんが、余の歴代の嫁たちには早死が多いんですよ」
「理由はわかっておるぞよ」
「どういうことですか?」
「上様は若い娘にしか用はないんじゃ」
「!」
「飽きた女はあの世に逝ってくれたほうがいいんじゃ」
「!!」
「こわいこわい〜」
「……。そんなことはありません。わきゃきゃ若い娘が好きなんて、全然そんなことはありません。余は月光院殿など年増とも浮名を流しておりますよ」
「ふふふ。月光院とは他に目的があったからじゃ。月光院は当時からババアだったが、大奥で絶大な権力を握っておった。上様はババアは嫌いじゃが、将軍になるために我慢して取り入っていたのじゃ」
「……」
「図星じゃろう? 怖すぎ怖すぎぃ〜。腹黒腹黒ぉ〜」
「……」

 享保十六年(1729)、おたけは天英院の働きかけで薩摩藩主・島津継豊(「島津氏系図」参照)に嫁いだ。ただし、鹿児島に嫁ぐのではなく、江戸住まいである。
「えーっ! 俺、まだ死にたくないよ〜。後継ぎもいるし、嫁なんかいらねーよー」
 嫌がる継豊に徳川吉宗が提案した。
「それなら形だけ結婚したことにして別居すればいい。おたけの御殿を芝屋敷の北側に余が造ってやるよ」
「え!俺の嫁の御殿まで造ってくれるんですか!?」
「俺の嫁ってなんだ? 勘違いするでない。その御殿にはおぬしは出禁だ」
「!」

 延享三年(1746)、継豊は隠居して鹿児島に帰るが、おたけが「形だけの夫」について行くことはなかった。
「おたけ〜」
「ちちうえ〜」
 おそらくずっと吉宗との関係は続いていたのであろう。
 吉宗が死んだのは寛延四年(1751)六月二十日であった。享年六十八。

[2022年6月末日執筆]
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※ 吉宗には大奥の美女だけを解雇したという逸話がありますので、ブス専だったと思われます。

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