1.陰謀!藤原忠実!!

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たいしたことではない
1.陰謀!藤原忠実!!
2.闇討!平 忠盛!!
3.解決!鳥羽上皇!!
藤原忠実 PROFILE
【生没年】 1078-1162
【別 名】 知足院・富家殿
【出 身】 京都橘俊綱邸(京都府京都市)
【本 拠】 東三条殿・鴨院・高陽院・枇杷殿・近衛殿
・町尻殿・五条町尻邸・藤原孝清邸・知足院
(京都市)・富家殿・小松殿・西殿(京都府宇治市)
【職 業】 公卿(政治家)
【役 職】 侍従→右近衛少将→右近衛中将→非参議
→権中納言・左近衛大将→権大納言
→摂政・右大臣→関白・太政大臣→内覧→准三宮
【位 階】 正五位下→従四位下→正四位下→従三位
→正三位→従二位→正二位→従一位
【 父 】 藤原師通(頼通の孫)
【 母 】 藤原全子(藤原俊家女)
【 妻 】 源任子(源俊房女)・源師子(源顕房女)
・藤原盛実女・不劣(高階基章室)・信濃
・播磨ら
【 子 】 藤原泰子(勲子・高陽院)・忠通・頼長
・御匣殿・覚法法親王(継子)ら
【従兄弟】 藤原宗忠・藤原伊通・藤原宗子ら
【主 君】 白河法皇・鳥羽上皇・崇徳上皇
・近衛天皇・後白河上皇・二条天皇
【部 下】 中原師元・高階仲行・源顕親・源憲雅
・源為義ら
【友 人】 藤原清隆・藤原経宗ら
【著 作】 『殿暦』『中外抄』『富家語』

 天承二年(1132)三月十三日、京都白河(しらかわ。京都市左京区)に得長寿院(とくちょうじゅいん)なる寺が完成した。
 院政第二代鳥羽上皇
(「天皇家略系図」参照)の御願寺(ごがんじ。皇族の祈願寺)であるが、造営を請け負ったのは備前平忠盛(「桓武平氏略系図」参照)であった。
 境内には観音像千体を安置した三十三間堂があった。
 後に忠盛の子・清盛が建てることになる蓮華王院本堂
(京都市東山区)のモデルになったお堂である。
「これはすばらしい!」
 鳥羽上皇はその壮観さに感激し、忠盛に内昇殿
(ないしょうでん・うちのしょうでん)を許可した。これは、内裏内にある清涼殿(せいりょうでん。天皇居所)の「殿上(てんじょう)の間」の出入りを許可して殿上人(てんじょうびと。側近。公卿・親王・院近臣蔵人頭以下)に加えたということである。
 時に忠盛三十六歳。武士の昇殿は、かの源義家
以来のことであった(義家は院昇殿)

 人々はうわさした。
備前忠盛殿が昇殿を許可されたそうな」
「無理もない。忠盛殿もその父・正盛殿も盗賊逮捕や海賊退治でずいぶん活躍なされたからな」
「そうそう。北嶺強訴も見事に撃退なされた」

 が、既存の殿上人たちはおもしろくなかった。
武士とはつまり警備員だ。警備員は外で警備するものだ。それを宅の中に入れてどうする?」
忠盛の海賊退治には疑惑がある。すでに従えている者たちを新たに平定したことにしたらしいぞ。また、捕らえた数も実際より水増ししていたらしい。いわゆる粉飾ってやつだ」
強訴の件もそうだ。活躍していたのは忠盛ではなく、検非違使源為義のほうよ」
「それにしてもヤツには土地をめぐるゴタゴタが多すぎる」
「そうそう。
との密貿易でボロもうけしているともいうぞ。ヤツの財力の根源はそれだ」

 特におもしろくない男がいた。
 いや、おもしろくないどころではなく、その男は殺意まで抱いていた。
(忠盛め、ぶっ殺してやる!フン!かえって昇殿は好都合よっ!)
 男とは、時の摂関家当主・藤原忠実
(ただざね。頼通のひ孫。「藤原北家略系図」参照)五十五歳。
 かつて摂政関白太政大臣を極め、一時期、院政初代・白河法皇の怒りを買って山城宇治
(うじ。京都府宇治市)で隠居していたが、法皇の死によって政界に復帰、この年、鳥羽上皇から内覧の権限を与えられた政界の超大物である。
 内覧は摂関の特権であるが、鳥羽上皇関白藤原忠通がいるにもかかわらず、両者を並立させたのである。
 忠実には信念があった。
(わしは摂関家当主として、他氏他家を排斥する義務がある。摂関家は今までそうやって権力を握り続けてきたのだ!桓武平氏だと?政界にはそのような無頼なヤカラが入り込む余地などないわっ!)
 忠実は何より秩序を重んじた。
(貴族は院
(上皇)や帝の部下であり、武士貴族の部下であるべきである。武士貴族に犬のように従い、ただ武芸だけに励んでいればいいのだ!それなのに忠盛はなんだ?貴族を飛び越して院に直接こび、まったく貴族をないがしろにしている!こんなヤツは真の武士ではない!単なる下克上よ!殿上人の誰がそんな部外者の登場を望むであろうか?望むはずがないっ!」
 忠実は太刀
(たち)を手に取った。
 それは、ある男がこの世に残した形見であった。
(真の武士とは、この刀の主のことをいうのだ)
 忠実は柄を握り、その在りし日の面影を思い出し、目頭を熱くした。
(サムライは二度死んだ。一度目は平正盛に存在を消され、二度目はその子・忠盛にだまし討ちにされた。そうなのだ!正盛忠盛父子こそ、このサムライのカタキなのだっ!)

 サムライの名は源義親(よしちか)といった。
 清和源氏の当主であり、義家の次男で後継者であり(「清和源氏略系図」参照)、父譲りの豪傑であったが、ちと乱暴が過ぎたため、嘉承三年(1108)一月に正盛によって成敗された。
 が、死んだはずの義親が、なぜかその後も各地で出没した。
 忠実は笑った。
(そうだ。義親は討たれていなかった。正盛は義親を討つことができず、別人の首を偽装して先院
(白河法皇)に差し出し、褒美だけを泥棒猫のようにかっぱらっていったのだ!本物の義親といえば、このわしが自邸でかくまっていた。いずれ桓武平氏に対抗させるためであった。義親はいいヤツであった。世間の人々は粗暴というが、そんなことはない。少し要領が悪かっただけなのだ。義親の悪事は、彼を追い落とそうとした正盛らが仕組んだ陰謀であろう!正盛とはそういうことを平然とする悪党なのだっ!)
 忠実は怒り震えた。
(忠盛もそうだ。いや、ヤツは正盛以上の大悪党だ。忠盛は義親の存在に気づくと、不意打ちを仕掛けてこれを殺してしまった。わしが激怒すると、自分は襲っていないとヤツは言い張り、真犯人として検非違使源光信
(みつのぶ。「清和源氏略系図」参照)をしょっ引いてきた。院(鳥羽上皇)忠盛を信じ、無実の光信を流刑にした。当時光信は為義と並ぶ清和源氏の双璧(そうへき)であった。つまり忠盛は、義親殺しを源氏同士の内輪もめに仕立て上げ、邪魔者二人を一挙に始末してしまったのだ!なんという悪賢い策謀家だ!こんな汚すぎるヤローが真の武士といえるであろうか?いえるはずがないっ!)
 忠実は立ち上がった。こぶしを握り締めて仁王立った。
(わしは忠盛を許さない!わしでなくとも、心ある人であれば、ヤツを許すヤツなどいるはずがない!そんなヤツが昇殿だと!もう我慢ならん!わしが天に代わって天誅
(てんちゅう)を下してくれようっ!」
 忠実には勝算があった。
(わしは政界首班だ。わしが手を上げれば、すべての公卿がわしになびくのだ!わしが立ち上がれば、すべての殿上人が一斉に立ち上がるのだ!皇族も貴族も下っ端たちも、みなみなみなわしの味方なのだっ!――問題は、いつどうやって殺すかだ)
 忠実は考えた。そして、ひらめいた。
(そうだ!豊明節会
(とよのあかりのせちえ)がいい)
 豊明節会とは、新嘗祭
(にいなめさい。収穫祭)後に内裏の紫宸殿(ししんでん・ししいでん。儀式場)で開かれた夜宴のことである。天皇が新穀を召し上がり、群臣に酒を振舞い、五節舞(ごせちのまい。「2003年6月号 尾行味」参照)やその他歌舞が催され、諸臣入り乱れての無礼講になるのである。
(殿中では武士といえども真剣を持つことは許されない。飾太刀
(かざりたち。模造刀)しか差せないのだ。外では無敵のツワモノも、内では単なる丸腰の田舎者なのだ!しかもヤツは先輩たちからよってたかって酒を勧められ、泥酔状態になる。そうなったところであらかじめ蔵人や舞人に紛れ込ませておいた刺客に襲わせれば、いかに豪傑とはいえ、ひとたまりもないわっ!おまけに周囲もみな泥酔状態で辺りは真っ暗闇。人が一人倒れていたところで誰も気づきやしない。アハハ!作戦は完璧だ!成功だ!成功しないはずはないっ!フッフッフ!平忠盛!豊明の夜宴に死すべしっ!!」

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