4.東京

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4.東京

 明治二十九年(1896)九月、小泉八雲は帝国大学の英文学講師になってしまったため、一家で上京することになった。
東京よ、東京!」
 小泉節子はウキウキ喜んでいたが、
東京は地獄です。三年我慢できません」
 都会嫌いの八雲はうれしくなかった。
「あなた、喜ぶから行くだけ。私、行きたくない。もう東京には、広重描いたような江戸、ありません」
 八雲は東京が西洋化していることが気に入らなかった。
「私、理解不能。日本人、なぜ西洋のマネする? 日本人、いいものたくさん持ってるのに」
 八雲は西洋的なものよりも日本的なものを愛した。
 仏教にも興味を持った。
 彼は聖書は愛読していたが、牧師は信じていなかった。
「キリスト教の教導者、ニセモノばっか」
 あるとき、あまりに八雲が、
「西洋くさいものはダメ」
 とばかり言うので、節子が言ってやった。
「あなた、いつもそう言いますけど、あなたの顔自体が何より西洋くさいじゃないですか」
 八雲は悲しそうな顔をした。
「それ、反則です。私、日本人より真の日本を愛する真の日本人」

 家は市谷富久町(いちがやとみひさちょう。東京都新宿区)で借りることにした。
「この寺、おもしろい」
 八雲は「瘤寺
(こぶでら)」と呼ばれている荒れ寺が隣にあることが気に入った。
 境内には大きなスギの木がたくさん生えており、都会の喧騒
(けんそう)を忘れられた。
 八雲は毎朝、毎夕、「瘤寺」境内を散歩した。
 ついて歩く節子に言った。
「私、この寺、住む」
 節子は吹き出した
「寺に住むには坊さんにならなければなりません」
「私、坊さん。あなた、尼さん」
「坊さんはお経を読んだり、お葬式にも出なければなりません」
「私、なんでもします」
「付きあい切れません。次の世で坊さんになってください」
「私、そう願います」

 ある朝、いつものように「瘤寺」に散歩に来た八雲は、
「おお!おお!」
 と、声を上げた。
 境内のスギの木が三本切り倒されていたのである。
 八雲は老住職に詰め寄った。
「この木、なぜ切りました?」
「寺の経営が苦しくて、売りに出そうと思いまして」
「カネなら私、何とかしました!どうして木、切るんです!」
 八雲は切り株に抱きついた。
 そして、心配して近づいてきた節子に言った。
「私、あの坊さん、少し嫌いになりました。坊さん、カネない、かわいそう。でも、この木、もっとかわいそう……」
 ほどなくして、老住職はほかの寺へ移ってしまった。
 若い住職になると、ますますスギの木は切られ放題になり、八雲が愛した風景はぶっ壊されてしまった。


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現在の西大久保(東京都新宿区)周辺

 一家は引っ越すことにした。
 西大久保
(にしおおくぼ。新宿区)の売り家を買い、増築して住むことにした。
 常日頃、八雲は、
「家を建てるなら、隠岐出雲に建てます」
 と、言っていたが、
「田舎は嫌ですっ!」
 断固、節子が反対したのである。
 何か田舎にトラウマでもあったのであろうか?

 明治三十六年(1903)、八雲は帝大講師を辞任した。
 この時、学生たちの間で、
「八雲先生を辞めさせるな!」
 と、留任運動が起こったという。
 学生たちは、八雲の後任講師が偏屈極まりない夏目漱石だったことも不満であった。
 後に歌人となる川田順
(かわだじゅん)などのように、
「八雲先生のいない文科なんて学ぶ価値はない」
 と、法科に転科してしまった者もいた。
 翌年、八雲は早稲田大学の講師になった。

 言い忘れたが、八雲は『怪談』などを著した小説家でもあった。
 小説を書いている最中は、八雲は物語の世界に入っちゃっていた。
 いいネタを思いついたときは、独りでヒャーヒャーはしゃいでいたという。
 あるとき、バタンバタン書斎がうるさいので、節子が見に行ったところ、八雲が飛び跳ねていて、
「私、こんなに楽しい!あなた、一緒に喜ぶ!」
 と、強制させられたという。

 八雲は節子との間に三男一女(一雄+巌+清+寿々子)をもうけた。
 八雲は子煩悩
(こぼんのう)であったが、末子が生まれた時には悲しそうな顔をした。
「私、もうおいぼれ。この子の行く末、見届けられない。胸が苦しい」
 胸が苦しいのは狭心症のためであった。
 八雲は言った。
「時々、胸が痛みます。大きいのがきたら、たぶん死にます。私、死んでも泣かないでください。小さなビンを買います。それに骨を入れて田舎の荒れ寺に埋めてください。悲しむ、私、喜びません。子供たちとカルタをして遊んでください。そうすれば、私、楽しい」
 節子は泣きそうになった。
「そんな冗談、言わないでください」
「冗談ではありません」
 節子は医者を呼んだ。
「具合の悪いところはありませんか?」
「どこも悪くありませんよ。病気、飛んでっちゃいました」
 八雲は医者にかかることも薬を飲むことも嫌がった。

 明治三十七年(1904)九月、春でもないのに書斎の庭の桜が咲いた。
 八雲がよろよろと外へ出て笑った。
「桜、春と勘違いしました。かわいそうですが、すぐに寒くなります」
 桜はその日の夕方には散ってしまった。
「桜、お別れに来ました」

 八雲はヘビースモーカーであった。
 亡くなった当日、九月二十六日も朝からタバコをスッパスッパふかしていた。
「おはようございます」
 節子が挨拶すると、八雲は遠目になった。
「昨晩、大層珍しい夢、見ました」
「どんな夢ですか?」
「遠い旅です。夢なのか、現実なのか、西洋でもない、日本でもない」
 八雲はマツムシを飼っていた。
 その日もマツムシは、
 ちんじろげ〜。ちんじろげ〜。
 と、鳴いていたが、少し「声」がかすれているようであった。
「生きるものには命があります。暖かい日に、草むらに放してあげます」

 夕食後、子供たちと別れた後、八雲が節子に小声で言った。
「大きいのが来ました」
 それでも八雲はいつもの習慣で書斎の廊下を散歩していたが、
「もうお休みらなられては?」
 節子に勧められて静かに横になった。

 八雲は息をしなくなった後も、幸せそうな笑みをたたえていたという。
 享年五十五。

[2012年7月末日執筆]
参考文献はコチラ

※ 小泉八雲が生まれたギリシャのレフカダ島は、当時は英国領です。
※ 松江の北堀町にあった八雲の旧居は国史跡に指定され、隣接して小泉八雲記念館が建てられました。
※ 西大久保にあった小泉八雲旧邸は小泉八雲記念公園になりました。

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