1.史上最大の土地長者 | ||||||||||||||
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水無瀬殿(みなせどの)は天王山(てんのうざん。京都府大山崎町)を庭とし、淀川(よどがわ。琵琶湖〜大阪湾)を堀とする巨大な離宮(天皇家の別荘)である。現在、その跡地には水無瀬神宮(みなせじんぐう。大阪府島本町)が建っているが、それはほんのほんの一部に過ぎない。
造営したのは千八百年目の永久政権「朝廷」の首魁(しゅかい)・後鳥羽上皇(「天皇家略系図」参照)。
後鳥羽上皇(天皇) PROFILE | |
【生没年】 | 1180-1239 |
【別 名】 | 尊成親王・顕徳院・良然・隠岐院 |
【出 身】 | 京都五条(京都市中京区) |
【本 拠】 | 二条殿・京極殿・高陽院・大炊殿 ・五辻殿・白河院・押小路殿(京都市) ・水無瀬殿(大阪府島本町)・鳥羽殿(京都市伏見区) ・岡崎殿(京都市左京区)・宇治殿(京都府宇治市) |
【職 業】 | 皇族 |
【役 職】 | 天皇(1183-1198)・院政(1198-1121) |
【 父 】 | 高倉天皇(後白河天皇皇子) |
【 母 】 | 藤原殖子(坊門信隆女) |
【継 母】 | 平徳子(建礼門院)・藤原通子ら |
【乳 母】 | 藤原兼子(卿二位) |
【兄 弟】 | 言仁親王(安徳天皇)・守貞親王(後高倉院) ・惟明親王・功子内親王・範子内親王(坊門院) ・潔子内親王 |
【 妻 】 | 藤原任子(宜秋門院)・土御門在子(承明門院) ・源信康女・高倉重子(修明門院)・亀菊(伊賀局) ・藤原定能女・坊門信清女・尾張・丹波局 ・少納言典侍・右衛門督・姫法師ら |
【 子 】 | 昇子内親王(春華門院)・為仁親王(土御門天皇) ・道助親王・肅子内親王・守成親王(順徳天皇) ・覚仁親王・道守親王・雅成親王・礼子内親王 ・頼仁親王・尊快親王・道覚親王・煕子内親王 ・尊円親王・覚誉・道伊・道縁・行超ら |
【側 近】 | 藤原(葉室)光親・藤原(中御門)宗行・坊門忠信 ・高倉範茂・一条信能・源有雅・尊長・土御門定通 ・藤原秀康・後藤基清・藤原定家・藤原家隆ら |
【仇 敵】 | 源頼朝・北条政子・北条義時・北条泰時ら |
【編 著】 | 新古今和歌集・後鳥羽天皇宸記・後鳥羽院御集 ・遠島御百首・後鳥羽院御口伝・無常講式 ・世俗浅深秘抄・裁判至要抄など |
【墓 地】 | 大原陵(京都市左京区)・火葬塚(島根県海士町) |
【霊 地】 | 水無瀬神宮(大阪府島本町) ・隠岐神社(島根県海士町)など |
この日、後鳥羽上皇は御機嫌であった。
夢中で鞠(まり)を蹴(け)っていた。何度も何度も執拗(しつよう)に蹴り上げていた。
「実朝は鞠になった! 鞠は朕(ちん)の思うがままよっ!」
建保七年(1219)一月、鎌倉幕府三代将軍・源実朝は死んだ。
源氏の氏神・鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう。神奈川県鎌倉市)にて、甥(おい)の公暁に暗殺されたのである(「将軍味」「清和源氏系図」参照)。
「ミジメだ! ブザマだ! 武家の棟梁(とうりょう)である将軍ともあろう者が、わずか一太刀のもとに殺されよった!」
後鳥羽上皇は鞠を高く蹴り上げた。
瞬時に太刀(たち)を抜くと、落ちてくるそれをぶった切った。
鞠は真っ二つに割れ落ちると、それぞれクルリと一回転して動かなくなった。
「朕は実朝にはならぬ! たとえ敵に襲われたとしても、このように返り討ちにしてくれるわっ!」
後鳥羽上皇は剣に凝っていた。
剣術を学び、よりいい刀を探し、よりいいものをと自分でも作らせ、鑑定まで行っていた。
剣術だけではなかった。水泳・乗馬・弓道・相撲・蹴鞠(けまり・しゅうきく)などなど、彼はありとあらゆる武芸を得意としていた。熊野詣にも二十八〜三十回も訪れ(「熊野味」参照)、逃げる盗賊を舟で追い回し、かいでぶちのめして絡め捕ってしまったという武勇伝も伝えられている。
一方で音楽(特に琵琶)や囲碁や双六(すごろく)もたしなみ、藤原定家らに『新古今和歌集』を編纂させるなど和歌にも堪能、有職故実・法律・仏教にも精通し、自ら『世俗浅深秘抄(せぞくせんしんひしょう)』『裁判至要抄(さいばんしようしょう)』『無常講式(むじょうこうしき)』など専門書も著していた。
「この世の中で一番偉い人は誰か? 一番強い者は誰か?」
「院でございます」
後鳥羽上皇の問いに即座に答えたのは、藤原兼子(ふじわらのけんし・かねこ。「南家系図」参照)。
卿二位(きょうのにい)と呼ばれ、「権門女房」と恐れられた朝廷最強の女権勢家である。
乳母として後鳥羽上皇の性格を熟知している彼女は、朝廷の政務を陰で操縦、女性の斡旋(あっせん)など「性務」も一手に担っていた。
後鳥羽上皇は兼子の答えに満足した。自覚した。そして、奮い立った。
「そうだ。朕は最強なのだ! いまや朕の所領は全国に三千箇所! 天皇家史上最大の版図を手に入れることができたのだっ! そう。朕は古今未曽有、史上最強の土地長者なのだっ!」
養老六年(722)年、時の右大臣・長屋王(「天皇家系図」参照)は百万町歩開墾計画を打ち立てた。
「みんなで開墾して田畑を増やそう!」
が、国民は気が進まなかった。
「開墾したところで自分のものになるわけじゃあるまいし〜」
そのため、翌年には三世一身法を発令した。
「開墾してから三代までは自家の土地として認められるんだよ!」
天平十五年(743)、左大臣・橘諸兄(「橘氏略系図」参照)は、さらに墾田永年私財法を出して国民をあおらせた。
「新たに開墾した土地は永久に自分の土地として認められるようになりました!」
「本当か!」
国民はその気になった。
特に金持ちが喜んだ。
「えへ!
土地を増やしまくるぞっ!」
浮浪・逃亡人や奴婢を酷使し、争って私有地を拡大したのである。
これがいわゆる初期荘園である。
が、荘園が増えても税は納めなければならない。
地主たちは考えた。
「税を納めなくてすむ方法はないものか?」
いつの時代でも金持ちは考えることである。そしていいことを思いついた。
「そうだ! 税を免除されている偉い人の名義にしてしまえば、税を払わなくてすむぞ!」
地主たちは貴族や大寺社に荘園を寄進した。
で、いわゆるワイロだけ献上して納税を免れ、私服を肥やしたのである。
これがいわゆる寄進地系荘園である。
こうして偉い人のところに荘園が集まり始めた。
荘園群は偉い人のところへ、より偉い人のところへ次から次へと寄進されていった。
結果、最終的には一番偉い天皇家のところにすべての荘園群が集結したのである。
が、これに目を付けたヤツがいた。
御存知源頼朝である。
「朝廷ばかりにいい思いをさせてたまるか」
幕府は各地の荘園に地頭なるものを派遣、
「用心棒してやるから〜」
と、土足で入り込んできて分け前を請求してきたのである。
そのため朝廷の収入は削られ、せっかく荘園が増えても収入が伸びなくなってしまった。
すでに頼朝もその子の頼家も実朝も死んでいるが、幕府から繰り出される地頭がいなくなることはなかった。
「おぞましいたかり連中め!」
後鳥羽上皇は吐き捨てた。そばにいた院近臣・藤原宗行(ふじわらのむねゆき。中御門宗行・葉室宗行。「葉室家略系図」参照)に聞いた。
「幕府とは何か?」
宗行は後鳥羽上皇の学問の師であり、知恵袋であった。
「将軍の陣地のことでございまする」
「将軍とは何か?」
「正式には征夷大将軍。反逆者を鎮圧する遠征軍の長官のことでございまする」
「将軍を任命する者は誰か?」
「帝でございまする」
「帝より偉い者は誰か?」
「院でございまする」
「そうであろう!」
後鳥羽上皇は我が意を得たように叫んだ。
「その一番偉いはずの朕の言葉を、なぜ臣下である将軍の、そのまた陪臣(ばいしん)である執権が突っぱねるのだっ!?」
後鳥羽上皇には亀菊(かめぎく)という白拍子(しらびょうし。遊女)出身の愛人がいた。
彼の愛人はいっぱいいたが、中でも特に亀菊はお気に入りで、摂津長江・倉橋荘(ながえ・くらはしのしょう。大阪府豊中市?)という荘園も分け与えていた。
が、長江・倉橋荘でも地頭がかっぱらいをして暮らしていた。
彼女は後鳥羽上皇に頼んだ。
「うっとうしい地頭を辞めさせてくださいませ〜」
「そうかそうか。たやすいことだ」
後鳥羽上皇は、鎌倉幕府二代執権・北条義時(「北条氏系図」参照)に命令した。
「せめて亀菊のところだけでも地頭を辞めさせよ」
が、義時は受け付けなかった。
弟・北条時房(ときふさ)以下一千騎を上洛させて断った。
「何の落ち度もない地頭は辞めさせることはできません」
「朕の命令でもか!」
「はい。鎌倉は鎌倉のしきたりで動いております。いかに院といえども鎌倉の政務に口出しなさるのは御遠慮願いたい」
「ムカーッ!!」
後鳥羽上皇が怒っているのはそれである。
「ふーん。上皇様にも頭が上がらない人がいるんですかぁ〜。上皇様はこの世の中で一番偉い人じゃなかったんですかぁ〜」
いとしの亀菊にも軽蔑(けいべつ)のまなざしで言われたことであろう。
後鳥羽上皇は笏(しゃく。備忘録)をへし折って悔しがった。
「うぬぬぬぬぬ! 何たる侮辱か! 何たる屈辱かっ! 朕は天皇家の当主だぞ! 千八百年間の長きに渡り天下に君臨し、すべての人民や土地を手中に収め、一度たりとも誰に負けず、頭一つ下げたことのない、輝かしい栄光に満ち満ちた帝王なのだぞっ!
幕府はその朕に従わぬというのかー! えーい、もはや幕府なんぞいらぬっ! この世の中から跡形もなく、ぶっつぶしてくれるわーっっっ!!」