2.後鳥羽上皇御謀反 | ||||||||||||||
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承久三年(1221)五月十四日、後鳥羽上皇は全国にお触れを出した。
「城南寺(じょうなんじ。現在の城南宮。京都市伏見区)で流鏑馬ぞろえをやるからみんな集合!」
ウソであった。
本当のねらいは倒幕のための兵の召集であった。
それは翌十五日に後鳥羽上皇・順徳上皇父子が執権・北条義時追討の院宣(いんぜん。上皇の命令)・宣旨(せんじ。天皇の命令)を発したことから明らかである。
按察使(あぜち。地方行政監察官)・葉室光親(はむろみつちか。藤原光親)は早くに気づいて反対していたが、改めていさめた。
「お止めください!」
光親は藤原宗行の従兄弟で、彼もまた有力な院近臣の一人である。
「天下を治める方が自ら天下を乱してはなりませぬ!」
順徳上皇が言い放った。
「乱しているのは義時の方ではないか!」
順徳上皇は父と共に陰謀に専念するため、この年に子・仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)に譲位していた。
黙ってしまった光親に、後鳥羽上皇が命じた。
「なんじが義時追討の院宣を書け」
光親は従うしかなかった。
兵は続々と城南寺に集まってきた。
北面の武士・西面の武士なる上皇直属軍はもちろん、東は美濃、西は但馬など十四か国からその日のうちに千七百騎が集結したのである。
城南寺とは、巨椋池(おぐらのいけ。京都市・京都府宇治市・久御山町。現在は消滅)を庭とし、桂川(かつらがわ)・鴨川(かもがわ)を堀とする広大な離宮・鳥羽殿(とばどの)内にある寺である。これも後鳥羽上皇の別荘の一つであるが、彼はほかにも白河(しらかわ。京都市左京区)・岡崎(おかざき。同区)・宇治(宇治市)などにも巨大な別荘を持っていたという。
集まった兵たちの中には、幕府ゆかりの武士も少なくなかった。
たとえば検非違使判官・三浦胤義(みうらたねよし)は、幕府の重鎮・三浦義村(よしむら)の弟であった。
西面の武士で院近臣武闘派の長・藤原秀康(ひでやす)が胤義に聞いた。
「何とか義村殿を味方にできないものかな?」
胤義は答えた。
「日本国の『惣追捕使(そうついぶし。軍事総監)』の確約をいただければ、兄は喜んで義時を討ち、その首を持参してくることでしょう」
「本当か!」
これには後鳥羽上皇も順徳上皇も上機嫌であった。
また、京都守護・大江親広(おおえのちかひろ)も朝廷軍に加わった。
親広は幕府の政所初代別当・大江広元の子であるが、
「我が軍に加わるんだろうね? 加わらなければ義時と同様、あんたも朝敵になるんだよ」
と、迫られて仕方なく朝廷軍に加わったのである。
が、もう一人の京都守護・伊賀光季(いがみつすえ)は参上しなかった。
「悪いのは幕府ではなく院の方だ。悪事に加担することはできない」
光季は義時の義兄であったため、幕府を裏切ることはできなかったのであろう(親広も泰時の義兄弟だが)。
「ならば死んでもらうしかあるまい」
後鳥羽上皇は伊賀光季邸に藤原秀康・三浦胤義・大江親広・大内惟信(おおうちこれのぶ)ら八百騎を差し向けた。
対して光季方は数十人にも満たない。
「まともに戦っては勝てるわけがありません。鎌倉へ下ってはどうでしょうか?」
そういう意見もあったが、光季は受け合わなかった。
「まったく落ち度のない拙者らが院と戦って死ぬことができれば、勇名は末代まで知れ渡るであろう。望むところよ」
光季らは奮戦したが、結果は明白であった。子の光綱(みつつな)、郎党・贄田三郎(にえださぶろう)らとともに枕を並べて討ち死にしたのであった。
また、後鳥羽上皇はブレイン妖僧・尊長(そんちょう)に命じ、幕府と親密な関東申次(かんとうもうしつぎ。幕府取次役)・西園寺公経(さいおんじきんつね)とその子・実氏(さねうじ)を逮捕・監禁させた。
当初は父子も殺害するつもりであったが、
「公経を殺せば、個人的な恨みからの挙兵と思われますぞ!」
前右大臣・徳大寺公継(とくだいじきんつぐ)の諫言(かんげん)により思いとどまったのである。