3.北条泰時出陣 | ||||||||||||||
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「本院(後鳥羽上皇)御謀反ー!」
「新院(順徳上皇)もグルー!」
「伊賀光季(いがみつすえ)・光綱(みつつな)父子戦死ー!」
「大江親広(おおえちかひろ)、裏切りー!」
「西園寺公経(さいおんじきんつね)・実氏(さねうじ)父子幽閉ー!」
鎌倉に都の変事が伝えられたのは、五月十九日のことである。
「なんですと!」
尼将軍・北条政子、執権・北条義時、侍所別当・北条泰時は混乱した。
「院がゴムホン!? 天皇家の御当主がムホン!?」
「謀反とは天皇家に対して起こすものではないのか?」
「意味が分からぬ〜」
また、三浦義村(みうらよしむら。泰時の岳父)・安達景盛(あだちかげもり。泰時の子・時氏の岳父)・足利義氏(あしかがよしうじ。泰時の女婿)ら有力御家人のところには、
「義時を討ち取れば褒美は望みのままでっせ」
との後鳥羽上皇からのお誘いの手紙が送り届けられた。
後鳥羽上皇や順徳上皇は楽観的に考えていた。
「古来、朝敵になった者で討たれなかった者は誰一人としていない。葛城円(かつらぎのつぶら。「非行味」参照)・平群真鳥(へぐりのまとり)・筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)・蘇我入鹿・藤原広嗣(「暴発味」参照)・藤原仲麻呂・平将門・藤原純友・安倍頼時(あべのよりとき)・清原家衡(きよはらのいえひら)・平忠常・源義親(みなもとのよしちか)・源義朝・源義仲などなど、天皇家はすべての反乱を鎮圧し、すべての朝敵を滅亡させてきたのだ! そして今回もそうだ。こうして院宣・宣旨が発せられ、義時は朝敵になった! もはや義時に勝ち目はない! 朝廷軍が攻め入るまでもなく、鎌倉は混乱に陥って自滅するであろう!」
「執権様が朝敵になられたそうな」
「本院が都を制圧してしまったそうじゃ」
「院はもうじき錦の御旗を掲げて東征してくるそうだ」
変報を聞きつけた御家人たちが続々と政子邸に集まってきた。
「拙者どもはいったいどうすればいいんじゃー」
「院を相手に戦わなければならないということですかー!?」
「朝敵ってどーゆーこと?
我々はワルなんですかぁー!?」
騒然とする御家人たちに、安達景盛が制した。
「これより尼将軍が演説なされる。者ども! 耳の穴をかっぽじってよーく聞けーっ!」
政子が出てきた。御家人たちに呼びかけた。
「安心しなさい! 院宣も宣旨もウソです! 私たちは朝敵ではありません! 本院も新院も帝(仲恭天皇)も、藤原秀康や三浦胤義ら奸臣(かんしん)にだまされているんです! 奸臣たちを討ち果たせばすむことです!」
「なんだ。そうなんですか」
御家人たちは少し安心した。
政子は続けた。
「だまされてはいけません! これは鎌倉を分裂させようとする朝廷の策謀なんです!あなたたちは鎌倉の武士ではないですか! 亡き鎌倉殿(頼朝)の御恩を受けた、かわいいかわいい子供たちではありませんか! 朝廷が何をしてくれました?
あなたたちに恩賞を与えてくれましたか? 土地を与えてくれましたか? そうでしょう!
何もしてくれなかったではありませんか! みんなみんな鎌倉殿がしてくれたことではありませんか!
今こそ、鎌倉殿の御恩に報いるときとは思いませんか? それともあなたたちは大恩ある鎌倉殿の墓を、おぞましき朝廷の者たちに踏み荒らされてもいいと申されるのですか!
この中にもし朝廷につきたい者がいるのであれば、この尼の首を手土産に上洛するがよいっ!」
御家人たちは沈黙した。感涙した。そして、みなみな忠誠を誓った。
「そうじゃ。朝廷は我々に何もしてくれなかった」
「鎌倉殿が我々の生活を豊かにしてくれたんじゃ」
「拙者は鎌倉殿の息子じゃー!」
「私も鎌倉のために戦うぞー!」
「奸臣、討つべしー! 朝廷、倒すべしー!」
その晩、幕府首脳が執権・義時邸で作戦会議を開いた。
首脳とは、北条義時・北条泰時・北条時房(ときふさ。義時の弟)・大江広元・三浦義村・安達景盛の六人。
「ああ、どうしたらいいのだ」
前代未聞の事変に、首脳たちはさぞや困惑したことであろう。
「尼将軍はあんなことを言われたが、朝敵の我々に勝ち目があるのであろうか?」
「どちらにせよぐずぐずしているわけにはいかない。いずれ朝廷軍は鎌倉に攻めてきましょうぞ」
「さて、どこをどう守ればよいのやらっと」
「箱根(はこね。神奈川県箱根町)の守りを固めるべきかと」
「東山道や北陸道からも攻めてくるであろう」
「いや、最重要は箱根!」
地図を前に激論していた面々に、広元が目をしょぼしょぼさせながら口を挟んだ。
「おぬしたち、さっきから何をグータラグータラ言うておるのじゃ」
彼の目は眼病のためほとんど見えなくなっていた。
「攻撃は最大の防御なり。ここじゃ。ここに攻め込むよりほかあるまい」
広元がバシッと指差したところは京都であった。
「大江殿。そこは都ですぞ」
「だいぶ御目が悪くなられているようだ」
「だまらっしゃいっ!」
広元は言い張った。
「水源を断たずして洪水を止めることはできぬ! 御家人たちの動揺を抑えるためには何としても勝たなければならないのじゃ! やられる前に断固やるべしっ!」
義時も納得した。
「その通りだ。守りに入ってしまっては勝てる戦いも勝てなくなってしまう」
● 承久の乱幕府軍陣容 | ||
進行方面 | 主な武将 | 兵力 |
東海道 | 北条泰時 ・北条時房 ・三浦義村 ・足利義氏 ・千葉胤常ら |
約100,000騎 |
東山道 | 武田信光 ・小笠原長清 ・小山朝長 ・結城朝光ら |
約50,000騎 |
北陸道 | 北条朝時 ・結城朝広 ・佐々木信実ら |
約40,000騎 |
義時は東国の御家人たちに出撃命令を出した。
が、軍の集結を待っている間、また慎重論が盛り返してきた。
盛り返させたのは泰時である。
「本当に出撃でいいんですか? 勝てばいいですが、負ければ総崩れになりましょう」
広元は言い張った。
「勝てまする! 御曹司の貴殿が先頭に立って出撃すれば、御家人たちは勇気百倍志気千倍、必ず勝てまするっ!」
重病を押して会議に出た問注所執事・三善康信も積極策を支持した。
「その通りです。御曹司の弱気は全軍の志気に影響いたします。私も出撃あるのみかと。ゲホッ!
ゲボッ!」
幕府の方針は決した。
五月二十二日、まず北条泰時がわずか十七騎で鎌倉を出陣、二十五日までに東海道・東山道・北陸道の三手に別れ、総勢十九万余騎が京都に進軍したのである。その内訳は表の通り。
ところが、先発したはずの泰時は翌日戻ってきて聞いた。
「父上。もし、院自ら先頭に立って攻めてきたら、どういたしましょう?」
義時は答えた。
「まさか院を討ち取るわけにはいくまい。その場合はかぶとを脱ぎ、弓のつるを切って降参すべし」