5.宇治川の戦

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WBC初代王者・日本の栄光
1.史上最大の土地長者 
2.後鳥羽上皇御謀反 
3.北条泰時出陣 
4.尾張川の戦
5.宇治川の戦
6.君子、豹変す

 高陽院で後鳥羽上皇は待ち焦がれていた。
「秀康はまだか?」
「秀康殿、帰ってきました!」
 六月八日のことである。
 彼が帰ってきたということは吉報に違いなかった。
 後鳥羽上皇ははしゃいだ。
「そうか! 秀康は泰時を討ち果たしたか! 泰時の首を持って参ったか!」

 が、秀康らが持ってきたのは衝撃的な事態であった。
「去る六日、尾張川の戦で官軍は大敗! 北条泰時・武田信光ら、都に向かって怒涛
(どとう)の西上中!」
 後鳥羽上皇は耳を疑った。
「な、なに……。どとーのさいじょーちゅー!?」
 後鳥羽上皇はあたふたした。
「おかしい。朕は院宣を出したはずだ。宣旨も届いているはずだ。光親。確かに院宣は発行したのか?」
 葉室光親は答えた。
「武田信光
(たけだのぶみつ)に送った使者は斬(き)られました。北条朝時(ほうじょうともとき。泰時の弟。名越朝時)に送った使者は追い返されました」
「何だと! なぜ御家人たちは裏切らぬ!」
御家人たちにとって、鎌倉がすべてということなのでしょう」
 後鳥羽上皇は悔しがった。
「うぬぬ! 何が鎌倉か! 鎌倉のどこが朕より良いのか!」
 秀康が言った。
「戦の勝敗は時の運です。勝つときもあれば負けるときもありますよ。今度は勝てますよ」
「本当か? 本当に勝てるのか?」
「は……、そのぉ……、と、存じますが……」
 尊長が消極的な提案をした。
比叡山に避難されてはいかがかと」
「そうじゃな。延暦寺に入ってしまえば、まさか鎌倉も手出しはできまーい」
 後鳥羽上皇順徳上皇らを引き連れて比叡山に避難した。
 が、延暦寺僧兵たちに追い返された。
「院が来ただと。我々は巻き添えにされるのはごめんだ。シッ! シッ!」
「なんという仕打ちだ! 院は犬ではないぞーっ!」
 六月十日、後鳥羽上皇らはむなしく高陽院に帰った。

● 宇治川の戦朝廷軍陣容
守備地
(現所在地)
主な武将 兵力
三穂崎
(滋賀・高島市)
観厳ら 約1,000騎
勢多橋
(滋賀・大津市)
山田重忠
・伊東祐時ら
約3,000騎
供御瀬
(滋賀・大津市)
藤原秀康
・三浦胤義
・大江親広
・小野盛綱ら
約2,000騎
鵜飼瀬
(京都・宇治市)
藤原秀澄
・長瀬判官代ら
約1,000騎
宇治橋
(京都・宇治市)
高倉範茂
・源有雅
・藤原朝俊
・佐々木広綱ら
約20,000騎
真木島
(京都・宇治市)
安達親長ら 約500騎
芋 洗
(京都・久御山町)
一条信能
・尊長ら
約1,000騎

(京都・伏見区)
坊門忠信ら 約1,000騎
広 瀬
(大阪・島本町)
河野通信ら 約500騎

「こうなったら最後の決戦にかけるべき」
 六月十二日、朝廷軍は宇治・勢多を死守するため、全力で宇治川西岸及び都の南面に決死の防衛線を布いた。
 今回は公卿・僧たちも総出の背水の陣であった。
 その布陣は右の通り。

 六月十三日、泰時は栗子山(くりこやま。宇治市)に布陣、幕府軍は攻撃を開始した。
 すでに三浦義村の提案によって侵攻方面は決められていた。

  勢 多 北条時房ら
  宇 治 北条泰時ら
  供御瀬 武田信光・安達景盛ら
  芋 洗 毛利季光ら
   結城朝光・三浦義村ら

 が、抜け駆けで宇治橋に攻め寄せた足利義氏・三浦泰村らは佐々木広綱(ささきひろつな)らに撃退され、勢多橋でも山田重忠らが死守、熊谷直国(くまがやなおくに。直実の孫)らが討ち取られた。
「朝廷軍は攻めにくくするために橋げたを外しています」
「楯を並べて矢を射掛けてきます」
「欄干伝いに進んでいくと、弓矢でねらい撃ちにされます。宇治橋も勢多橋も渡るのは困難かと」
 泰時は考えて言った。
「橋が通れないのであれば、水の中を渡るしかないであろう!」
「いえ。連日の雨で川は増水しており危険かと」
「川を渡らなければ都に攻め入ることはできぬ! やれ! やるのだっ!」

 六月十四日、泰時は雨が降りしきる中、敵前渡河を強行させた。
 佐々木信綱
(のぶつな)・芝田兼義(しばたかねよし)・春日貞幸(かすがさだゆき)ら歴戦の勇将たちが先陣を争ったのである。
 が、途中、貞幸の息子や家来たちが増水した激流に飲まれた。
「うわー」
「助けてー!」
「ああ、息子たちよー!」 
 貞幸は叫んだが、彼らの姿はすぐにゴウゴウ渦巻く濁流の中に消えてしまった。

「ああ……」
 重たい空気が漂う中、泰時が息子・時氏
(ときうじ。時頼の父)に命じた。
「お前も行け」
 時氏は耳を疑った。
「え、ボクが行くの? あんなに危険なところへ!?」
 時氏、ときに十九歳。
「やかましい! お前は執権の嫡孫ではないか! 御家人たちに手本を見せてやるのだー!」
「ひええー」
 時氏は出撃した。激流でだいぶ下流に流されたものの、なんとか対岸へたどり着くことができた。
「や、やったぞぉう……」
「時氏様が渡られたぞー!」
 御家人たちは争って後に続いた。

 また、泰時は家来たちを近所の民家へ遣わした。
 民家では家族団欒
(だんらん)仲良く御飯を食べていたが、そこへ突然大勢でズカズカと上がり込んだのである。
「なんですか、あんたたちは!?」
 民家の主人は怒ったが、家来たちは構わず民家を壊し始めた。
「すまんが、いかだを作るんで、あんたの家を壊させてねっ」
「そんな無茶苦茶な〜」
 泰時はこうして作ったいかだで、集団渡河を試みたのである。
 この作戦は成功した。
「うわー! いっぺんにたくさん渡ってきたー!」
「敵が多いのはいやー!」
「もう防ぎきれないー!」
 高倉範茂
(たかくらのりしげ・のりもち。藤原範茂)・佐々木広綱らはたまらず敗走、宇治橋は突破されたのである。

「宇治橋、突破されましたー!」
 報告を受けた藤原秀康の行動は、またしても早かった。
「ほう、そうかい。この戦はもう負けだ」
 すぐに見切りを付けて一目散に都へ逃走したのであった。

「供御瀬の藤原秀康殿ら本隊撤退ー!」
「鵜飼瀬の秀澄殿も敗走ー!」
「淀・芋洗も壊走ー!」
 勢多橋の山田重忠は頭をかきむしって絶叫した。
「なんてこったい! またワシらが最後かー! みんな、逃げずにもう少し我慢して戦えよーっ!」

 が、敵の数は増える一方である。
 重忠もあきらめた。都へ向けて逃走した。
「こうなったら院と命運を共にするのみ」

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