6.君子、豹変す | ||||||||||||||
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後鳥羽上皇は待ち焦がれていた。
彼は高陽院から別の御所・四辻殿(よつつじどの)に移っていた。
「秀康はまだか?」
「秀康殿、帰ってきました!」
六月十五日のことである。
彼が帰ってきたということは吉報に違いなかった。
後鳥羽上皇ははしゃいだ。
「そうか! 秀康は泰時を討ち果たしたか! 泰時の首を持って参ったか!」
が、秀康らが持ってきたのは衝撃的な事態であった。
「官軍は宇治川の戦いで大敗!
幕府軍、都に乱入! 京内大混乱!」
後鳥羽上皇は耳を疑った。
「な、なに……。らんにゅー!?
だいこんらん!?」
後鳥羽上皇はあたふたした。
「敵がすぐそばまで来ているのか?
御所にも敵が乱入してくるのか?」
秀康はたのもしく言った。
「いえ。彼らは院には手出しはできません。我らが命をかけてお守りいたしまするっ」
「そ、そうか」
安心した後鳥羽上皇は、そばにいた押松丸に命じた。
「押松。秀康をおっぽり出してお前も御所から出ろ」
押松丸も秀康も驚いた。
「はっ? なんと?」
「いいからおっぽり出して今すぐ出ろ。門を閉めるから」
「承知」
押松丸は従った。秀康は引きずられながらわめいた。
「な、なんで!
一緒に最後の戦いをするんではないんですかーっ!?」
後鳥羽上皇が冷たく言い捨てた。
「朕はこの兵乱に関与せず」
「なんですと!!」
「分かったら早く失せるがいい。シッ! シッ!」
処罰者 | 身分・関係 | 処罰 |
後鳥羽上皇 | 乱の首謀者。 | 隠岐へ流刑 |
順徳上皇 | 後鳥羽上皇の子。 | 佐渡へ流刑 |
土御門上皇 | 後鳥羽上皇の子。 | 土佐へ流刑 (自発的) |
雅成親王 | 後鳥羽上皇の子。 | 但馬へ流刑 |
頼仁親王 | 後鳥羽上皇の子。 | 備前へ流刑 |
仲恭天皇 | 順徳上皇の子 | 廃位 |
葉室光親 | 院近臣。按察使。 | 駿河で死刑 |
藤原宗行 | 院近臣。 | 駿河で死刑 |
源 有雅 | 前権中納言。 | 甲斐で死刑 |
高倉範茂 | 参議。兼子の従弟。 | 相模で死刑 |
坊門忠信 | 源実朝の義兄。 | 越後へ流刑 |
藤原信成 | 坊門忠信の子。 | 謹慎 |
土御門定通 | 北条義時女婿。 | 謹慎 |
一条信能 | 源頼朝の甥。 | 美濃で死刑 |
藤原朝俊 | 院近臣。 | 宇治で敗死 |
九条道家 | 摂政太政大臣 | 罷免 |
尊 長 | 源頼朝の甥。 | 京都で自殺 |
長 厳 | 石山寺座主。 | 陸奥へ流刑 |
藤原秀康 | 北面の武士。 | 京都で死刑 |
藤原秀澄 | 北面の武士。 | 京都で死刑 |
山田重忠 | 尾張山田荘住人。 | 京都で自殺 |
山田重継 | 重忠の子。 | 京都で敗死 |
三浦胤義 | 義村の子。 | 京都で自殺 |
三浦胤連 | 胤義の子。 | 京都で自殺 |
三浦兼義 | 胤義の子。 | 京都で自殺 |
後藤基清 | 西面の武士。 | 京都で死刑 |
五条有範 | 西面の武士。 | 京都で死刑 |
大江能範 | 西面の武士。 | 京都で死刑 |
大江親広 | 広元の子。 | 潜伏 |
佐々木経高 | 秀義の子。 | 京都で自殺 |
佐々木広綱 | 経高の甥。 | 京都で死刑 |
河野通信 | 伊予の御家人。 | 陸奥へ流刑 |
こうして四辻殿の門は閉められた。
そこへ山田重忠が帰ってきた。
秀康ほか、三浦胤義・小野盛綱らがアホのように門外でたむろしているのを見て聞いた。
「なぜ外にいるのだ?」
秀康が答えた。
「我々は追い出されたのだ。院は『朕はこの兵乱に関与せず』だってさっ!」
重忠は激怒した。門をたたいた。そして、わめき散らした。
「大臆病人の院のせいで、我々は無駄死にさせられるのかぁーー!!」
その後、秀康らは東寺に移って抵抗するが、敗北して散り散り、それぞれ無惨な最期を遂げた。
後鳥羽上皇は泰時に院宣を発した。
「このたびの兵乱はすべて葉室光親ら奸臣どもが画策したことであり、朕が関与することにあらず。よって、前の義時追討の院宣は撤回する」
こうして、承久の乱は後鳥羽上皇の完全なる責任転嫁によって終わりを遂げた。
乱後、陰謀の張本人とされた葉室光親・藤原宗行・高倉範茂・藤原秀康・藤原秀澄らは捕らえられて処刑された。
後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ島流しにされ、仲恭天皇は廃位させられた。
順徳天皇の兄・土御門上皇は乱に関与していなかったが、自発的に土佐へ赴いた。
こうして天皇家の莫大な荘園群は事実上、鎌倉幕府の手に落ちたのである。
三上皇ら流刑後、御所内から後鳥羽上皇の挙兵を諫言(かんげん)する光親の手紙が多数発見された。
泰時・時房らは、
「ああ、なんということだ……。我々は忠臣の鏡を処刑してしまった……」
と、大いに後悔したという。
延応元年(1239)二月二十二日、後鳥羽上皇は都へ帰ることなく配所で崩じた。享年六十。
彼が配所で詠んだ歌をいくつか紹介して最後にしたい。
水無瀬山我ふる里は荒れぬらむまがきは野らと人もかよはで
限りあればさても堪へける身のうさよ民のわら屋に軒をならべて
かざし折る人もあらばや事とはん隠岐の深山に杉は見ゆれど
[2006年3月末日執筆]
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