54.栄光味 基礎用語集

安達泰盛(あだちやすもり)
 (1231-1285) 武将。評定衆(在職1256-1285)・引付頭人。上野・肥後守護。1247宝治(ほうじ)合戦で祖父・景盛(かげもり)、父・義景(よしかげ)とともに三浦泰村(やすむら)・光村(みつむら)兄弟を滅ぼし、1256評定衆(ひょうじょうしゅう)に就任、引付頭人なども兼ね、執権長時(ながとき)・政村(まさむら)・時宗(ときむね)を補佐、1284時宗没後は弘安徳政(こうあんとくせい)を断行するが、内管領(ないかんれい)・平頼綱(たいらのよりつな)と対立、1285霜月騒動(しもつきそうどう)で敗れて自害した。
揉事味

院近臣(いんのきんしん)
 院政期に院(上皇・法皇)や女院の側近として権勢を振るった廷臣。官位は低いが天皇家の血縁者が多く、受領(ずりょう)を歴任したため富豪が多かった。白河院政の藤原顕隆(ふじわらのあきたか)・高階為章(たかしなためあきら)・源俊明(みなもとのとしあきら)、鳥羽院政の藤原顕頼(あきより)・藤原家保(いえやす)・藤原家成(いえなり)・寛助(かんじょ)、後白河院政の藤原通憲(みちのり。信西)・藤原信頼(のぶより)・藤原隆季(たかすえ)・藤原邦綱(くにつな)・俊寛(しゅんかん)などが有名。

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)が任じられたのが最初。

延暦寺(えんりゃくじ)
 滋賀県大津市比叡山所在。天台宗(てんだいしゅう)総本山。山号比叡山(ひえいざん)。785最澄(さいちょう)が比叡山に入り、788一乗止観院(いちじょうしかんいん比叡山寺)を立てたのが起源。最澄は唐から帰国後、この地で天台宗を開き、その死後「延暦寺」の勅願を賜り、平安時代以後は奈良の南都(興福寺)と並んで北嶺(ほくれい)と呼ばれ、日本の仏教教学の中心となった。

大江広元(おおえのひろもと)
 (1148-1225) 公家・学者・官僚。政所別当。維光(これみつ)の子(または藤原光能の子)。中原広季(なかはらひろすえ)の養子。匡房(まさふさ)の曽孫。源頼朝(みなもとのよりとも)に請われて鎌倉に下り、初代公文所(くもんじょ。後の政所)別当に就任、地頭設置を建議するなど幕閣で重きをなし、頼朝没後は北条時政(ほうじょうときまさ)・義時(よしとき)らとともに十三人の合議制にも列席、1221承久(じょうきゅう)の乱では守戦論を退け、積極出撃策を主張、幕府を勝利に導いた。
排除味 排除味 

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝がここを本拠に幕府を開き、政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉公方(かまくらくぼう)が住み、東国支配の中心となった。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)
 (1192?-1333) 鎌倉時代の武家政権。1192源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任命されたことに始まるとされるが、創設の時期については異説が多い。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、代々執権(しっけん)を選出するが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略され、北条氏は滅亡、幕府は解体した。 

韓国(かんこく)大韓民国(だいかんみんこく)←大韓帝国(だいかんていこく)
 (1897-1910,1948-) 東アジアにある国。李氏朝鮮王朝二十六代・高宗(こうそう)が国号を大韓帝国と改めるが、1910韓国併合条約によって日本の植民地になり(日韓併合)、1945-1948アメリカの占領を経て、1948大韓民国として独立した。

寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)
 平安時代前期以降増加した荘園形態。地主が免税対策などのため天皇家・大貴族・大寺社などに寄進し、利権を確保した荘園。肥後の鹿子木荘(かのこぎのしょう。寿妙→藤原氏→天皇家)など。初期荘園に対していう。⇒初期荘園

教王護国寺(きょうおうごこくじ)=東寺(とうじ)
 京都市南区所在。真言宗東寺派総本山。794平安京遷都の際に西寺(さいじ)とともに創建され、823嵯峨(さが)天皇が空海(くうかい)に下げ渡して真言宗の中心となった。五重塔・金堂・大師堂・蓮華門・僧形八幡神像・西院不動明王像・真言七祖像・両界曼荼羅・「風信帖」などは国宝。三密味
貨幣味

京都(きょうと)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。政令指定都市。ユネスコ世界文化遺産。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。

京都守護(きょうとしゅご)
 (1185-1221) 鎌倉幕府の地方官。京都の守護。在京御家人の支配、京内の警察・裁判、幕府朝廷間の取次などを担当。初代は北条時政(ほうじょうときまさ)。1221承久の乱で廃止され、六波羅探題(ろくはらたんだい)に代わった。⇒六波羅探題

公卿(くぎょう)
 公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。現在でいう閣僚に相当。

公暁(くぎょう)
 (1200-1219) 僧。鶴岡八幡宮別当(つるがおかはたまんぐうべっとう)。源頼家(みなもとのよりいえ)の子。1219叔父・源実朝を父の敵と信じ、鶴岡八幡宮で殺害するが、北条義時(ほうじょうよしとき)の意を受けた三浦義村(みうらよしむら)によって殺された。将軍味

熊野詣(くまのもうで)
 熊野三山(熊野熊野本宮大社+熊野速玉大社+熊野那智大社)に参詣すること。平安時代後期に院・貴族が多く参詣し、鎌倉時代以降は武士・庶民の参詣も盛んになった。熊野味

検非違使(けびいし)
 令下官(りょうげのかん)の一つ。平安〜室町時代の京の警察・裁判官。九世紀初めに嵯峨(さが)天皇が設置し、824検非違使庁を創設、次第に権限を拡大し、弾正台(だんじょうだい)・京職(きょうしき)・衛門府(えもんふ)などを形骸化していった。

畿内(五畿)・七道(きない(ごき)・しちどう)
 古代の行政区分。首都を起点にした(西海道は大宰府が起点)主要幹線道路が通っていた。以下の七つ。所属国・国数・郡数は平安中期のもの。

区分(よびかた) 所属国(島) 国・郡数
畿内(きない) 山城・大和・河内・摂津・和泉  5・53
東海道
(とうかいどう)
伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐
・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸 
15・128
東山道
(とうさんどう)
近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽 8・112
北陸道
(ほくりくどう)
若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡  7・31
山陽道
(さんようどう)
播磨・備前・美作・備中・備後・安芸・周防・長門 8・69
山陰道
(さんいんどう)
丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐 8・52
南海道
(なんかいどう)
紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐 6・50
西海道
(さいかいどう)
筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向
・大隅・薩摩・壱岐・対馬・(多褹・掖玖)
11・96

御家人(ごけにん)
 鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士のこと。将軍家家臣。将軍から本領安堵(ほんりょうあんど。土地支配権の保証)・新恩給与(しんおんきゅうよ。功によって新たな土地や職を与えること)してもらう(御恩)代わりに、京都大番役(皇居・京都警備)・鎌倉番役(幕府警備)・軍役(戦争参加)などの義務(奉公)をこなした。

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)=後鳥羽院(ごとばいん)←後鳥羽天皇←尊成親王(たかなりしんのう・たかひらしんのう)
 (1180-1239) 伝八十二代天皇(在位1183-1198。院政1198-1221)。高倉(たかくら)天皇の皇子。 1183平氏の都落ち後に即位し、1198土御門(つちみかど)天皇に譲位して院政を開始、1201和歌所(わかどころ)を設置して藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)・藤原家隆(かりゅう・いえたか)らに『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』を編集させ、自身でも有職故実(ゆうそくこじつ)書『世俗浅深秘抄(せぞくせんしんひしょう)』などを著述、実力者・源通親(みなもとのみちちか)没後は朝廷の実権を掌握し、西面(さいめん)の武士を設置して幕府と対立、1221三代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して幕府打倒を目指したが、返り討ちにあって隠岐へ島流しにされた(承久の乱)。
将軍味4 栄光味

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)永世私財法永世私有令
 743開墾した土地の永久私有を認めた法令。723三世一身法に代わり橘諸兄(たちばなのもろえ)政権が発布。ただし、当初は身分に応じて私有限度を定めた。荘園制展開の前提となる。765一時廃止。772復活。

西面の武士(さいめんのぶし)
 院御所の西面の警備員。上皇直属軍。後鳥羽上皇が武力強化のために新設。御家人などを中心に選抜した。1221承久の乱で朝廷軍の中心となったため廃止された。

左大臣(さだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ)が任じられたのが最初。 

侍所(さむらいどころ・さぶらいどころ)
 鎌倉・室町幕府の軍事組織。鎌倉幕府のものは1180源頼朝が設置し、軍事・裁判を担当。現代の防衛省に相当。長官は別当(初代は和田義盛)、次官は所司(初代は梶原景時)。後に別当は北条氏が、所司は得宗(とくそう)家被官が世襲した。室町幕府のものは京都の警察や裁判を担当。現代の警視庁(地理的には京都府警)のようなもの。長官は所司(しょし。頭人とも)。管領に次ぐ重職で、山名(やまな)・赤松(あかまつ)・一色(いっしき)・京極(きょうごく)・土岐(とき)氏から選ばれた。

三世一身法(さんぜいっしんのほう・さんぜいつしんのほう)養老七年格(ようろうしちねんのきゃく)
 723新たに土地を開墾したものは三代末まで(曾孫または孫)私有を認めた法令。長屋王政権が開墾を奨励するため発布。

執権(しっけん)
 鎌倉幕府の最高執政官。侍所別当(さむらいどころべっとう)と政所(まんどころ)別当を合わせた官。北条(ほうじょう)氏が世襲した。初代は北条時政(ときまさ)。もとは院政における院司の長官のこと。

地頭(じとう)
 平安末〜鎌倉時代の荘園・公領直接支配者。平氏政権でもあったが、1185源頼朝(みなもとのよりとも)が守護とともに制度化し、田畑一段につき五升の兵粮米(ひょうろうまい)の徴収が認められた。承久(じょうきゅう)の乱前に任じられたものを本補(ほんぽ)地頭、乱後に任じられたものを新補(しんぽ)地頭という。南北朝の動乱後、本来の地頭の意味はなくなったが、江戸時代には知行取りの旗本や租税徴収係を地頭と呼んだ。

霜月騒動(しもつきそうどう)
 1285九代執権・北条貞時(ほうじょうさだとき)の外舅(または外祖父)で、評定衆(ひょうじょうしゅう)も務めた実力者・安達泰盛(あだちやすもり)が、内管領(ないかんれい・うちのかんれい)・平頼綱(たいらのよりつな)に討伐され、滅ぼされた事件。この事件は執権政治から得宗(とくそう)専制政治への転換点とされ、以後、内管領の権力はより強化された。揉事味

順徳上皇(じゅんとくじょうこう)←順徳天皇←守成親王(もりなりしんのう)
 (1197-1242) 伝八十四代天皇(在位1210-1221)。後鳥羽(ごとば)天皇の皇子。土御門(つちみかど)天皇の弟。母は藤原範季の娘・重子。1210父の意を受けて即位し、有職故実書『禁秘抄(きんぴしょう)』・歌論『八雲御抄』などを執筆、1221仲恭天皇に譲位し、父とともに幕府打倒を目指すが、敗れて佐渡へ島流しにされた(承久の乱)。

荘園(しょうえん)
 古代〜中世における貴族や寺社など富裕層の所有地のこと。自力で開墾(自墾地系)・買得(既墾地系)したもの(総じて墾田地系)と、寄進されたもの(寄進地系)に分けられる。鎌倉時代以後、武士に奪われ、太閤検地(たいこうけんち)の実施によって消滅した。

承久の乱(じょうきゅうのらん)承久の変(へん)
 後鳥羽(ごとば)上皇が鎌倉幕府に対して起こした反乱。1219三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)暗殺事件後、後鳥羽上皇は西面(さいめん)の武士を設置するなど武力を強化、1221二代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して兵を挙げた。幕府は北条泰時(やすとき)・時房(ときふさ)ら十九万人の討伐軍を派遣し、各地で朝廷軍を破って京都を制圧、仲恭(ちゅうきょう)天皇を後堀河(ごほりかわ)天皇に替え、後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳(じゅんとく)上皇を佐渡へ配流(土御門上皇は自ら土佐へ赴いた)、没収した荘園群に新補地頭(しんぽじとう)を任命し、朝廷監視のため京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置した。栄光味

初期荘園(しょきしょうえん)墾田地系荘園(こんでんちけいしょうえん)
 奈良〜平安時代初期の荘園。貴族や寺社が自力で開墾(自墾地系)・買得(既墾地系)した荘園。越前の道守荘(みちもりのしょう。東大寺領)・摂津の水無瀬(みなせ)荘など。有力農民の台頭によって衰退した。寄進地系荘園に対していう。⇒寄進地系荘園

新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)
 勅撰和歌集。八代集の最後。二十巻。後鳥羽上皇の命で源通具(みなもとのみちとも)・藤原定家(ふじわらのさだいえ・ていか・)・藤原家隆(いえたか・かりゅう)らが編集。約二千首を収録。

真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)
 1941.12/8(ハワイ時間12/7)に日本海軍がアメリカのハワイ基地に行った奇襲攻撃。太平洋戦争における最初の戦い。連合艦隊司令長官・山本五十六(やまもといそろく)の構想、第一航空艦隊司令長官・南雲忠一(なぐもちゅういち)の指揮で、淵田三津雄(ふちだみつお)ら航空機動部隊が出撃、ハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地を奇襲空爆し、戦艦八隻を撃沈大破するなど太平洋艦隊の主力を撃滅、緒戦の優位を確定させた。ただ、駐米大使・野村吉三郎(のむらきちさぶろう)の最後通告が攻撃に間に合わなかったため、アメリカの非難を受けた。翌日、アメリカは日本に宣戦布告。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)将軍
 蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。奈良時代にあった征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。もとは東国で兵乱が起こったときの臨時職であったが、1192源頼朝(みなもとのよりとも)が任命されて以後、武家の最高指導者の称号となった。将軍味

僧兵(そうへい)・悪僧(あくそう)
 武装した僧、またはその集団。興福寺(南都)と延暦寺(北嶺)のものが特に知られ、よく朝廷に対して強訴(ごうそ)を行った。

蘇我入鹿(そがのいるか)蘇我鞍作(そがのくらつくり)
 (?-645) 大臣(おおおみ)。蝦夷の子。643蝦夷より大臣を譲られ、斑鳩宮(いかるがのみや)に山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻め滅ぼして権勢を誇ったが、645中大兄皇子(天智天皇)・中臣(藤原)鎌足らによって飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)にて殺害された。⇒乙巳の変

平 忠常(たいらのただつね)
 (967-1031) 武将。千葉氏・上総氏などの祖。忠頼の子。下総を本拠に勢力を振るい、武蔵国押領使・上総介に就任、1028安房守・平維忠(たいらのこれただ。または源惟忠)を殺害、次の安房守・藤原光業(ふじわらのみつなり)を追って房総地方を制圧したが、1030甲斐守・源頼信(みなもとのよりのぶ)に降伏(平忠常の乱)、1031京都に護送される途中に美濃で没した。
降伏味

平 将門(たいらのまさかど)
 (?-940) 武将。良将(よしまさ)または良持(よしもち)の子。初め京都で関白・藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕え、下総に帰国後、931伯父・平良兼(よしかね)と対立、931伯父・平国香(くにか)を殺し、その子・平貞盛や良兼らを撃破、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)国府を攻略し、ほぼ関東一円を支配、新皇(しんのう)を称し、下総猿島(さしま)を内裏としたが、940貞盛・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らに討たれた(平将門の乱)。
悪党味 生首味

平 頼綱(たいらのよりつな)・平禅門(ぜんもん)
 (?-1293) 武将。内管領・侍所所司。平盛綱(もりつな)の子? 1285霜月騒動(しもつきそうどう)で御家人代表・安達泰盛(あだちやすもり)を滅ぼして権勢を誇るが、1293次男・飯沼資宗(いいぬますけむね)を将軍に擁立しようとしていると長男・平宗綱(むねつな)に密告され、執権・北条貞時(ほうじょうさだとき)に滅ぼされた(平頼綱の乱・平禅門の乱)。
揉事味

橘 諸兄(たちばなのもろえ)←葛城王(かつらぎおう・かずらきおう)
 (684-757) 公卿。左大臣。橘氏の祖。美努王(みぬおう)の子。母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいたちばなのみちよ)。藤原光明子(こうみょうし)の異父兄として藤原四兄弟没後に政権を握り、参議から大納言、右大臣、左大臣と昇進、国分寺建立・大仏造立など聖武(しょうむ)天皇の鎮護国家(ちんごこっか)政策に協力し、740恭仁京(くにきょう)遷都を主導したと思われるが、756左大臣を辞任した。
辞任味

土御門上皇(つちみかどじょうこう)←土御門天皇←為仁親王(ためひとしんのう)
 (1195-1231) 伝八十三代天皇(在位1198-1210)。後鳥羽(ごとば)天皇の皇子。順徳(じゅんとく)天皇の兄。母は源通親の娘・在子。1198即位するが、1210後鳥羽上皇の命令で弟に譲位、1221承久の乱には関与しなかったが、自発的に土佐に赴き、1223阿波に移った。

天皇(てんのう)
 古代〜現代に至る日本の国王。推古天皇のときに成立? 初代天皇は神武(じんむ)天皇? 今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では象徴。
女帝味

天保の改革(てんぽうのかいかく)
 (1841-1843) 老中首座・水野忠邦()が行った幕政改革。1841大御所・徳川家斉(とくがわいえなり)の死により水野が幕政を掌握、1841質素倹約・風紀粛清などを行い、株仲間を解散、1842アヘン戦争に勝利したイギリスを意識して下田(しもだ)・羽田(はねた)・1843新潟奉行を設置し、人返しの法を発令、印旛沼(いんばぬま)を干拓するが、上知令(あげちれい。上地令)を老中・土井利位(どいとしつら)らに反発されて失敗した。改革味

道鏡(どうきょう)弓削(ゆげ)道鏡
 (?-772) 法相宗(ほっそうしゅう)僧。義淵(ぎえん)・良弁(ろうべん)の弟子になり、孝謙上皇(こうけんじょうこう。称徳天皇)の病気を治して信任され、763少僧都(しょうそうず)・764大臣禅師・765太政大臣禅師と昇進、西大寺(さいだいじ)を建立し、766法王(ほうおう)に就任、769宇佐八幡宮の神託を利用して皇位をねらったが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれ、称徳(しょうとく)天皇没後に失脚した。奈良味 女帝味

長屋王(ながやおう)長屋親王(ながやしんのう)
 (676?-729)皇族・公卿。左大臣。高市皇子(たけちのおうじ)の子。天武(てんむ)天皇の孫。母は御名部(みなべ)皇女?。文武(もんむ)天皇の妹・吉備(きび)内親王を妻とし、元明(げんめい)天皇に信頼され、藤原不比等(ふじわらのふひと)死後は政界首班として722良田百万町歩の開墾を計画、723三世一身法を施行したが、729藤原四兄弟によって謀反の罪を着せられて自殺に追い込まれた(長屋王の変)。その邸宅跡から多くの木簡が出土した。栄光味 テロ味 温泉味
令和味 呪い味

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

奴婢(ぬひ)
 古代の賤民(せんみん)の一。奴は男の奴隷。婢は女の奴隷。公奴婢(こうぬひ)と私奴婢(しぬひ)があった。⇒五色の賤

比叡山(ひえいざん)
 京都府京都市と滋賀県大津市の境を成す山。標高八四八メートル。山頂に延暦寺(えんりゃくじ)が、山麓に園城寺(おんじょうじ)がある。

百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)
 722に出された良田百万町歩開墾計画。長屋王政権が人口増加による口分田を確保するために計画するが、余り効果はなかった。全国規模説と奥羽地方限定説がある。

武士(ぶし)侍(さむらい)武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

藤原純友(ふじわらのすみとも)
 (?-941) 武将。良範(または高橋友久)の子。伊予掾(いよのじょう)となるが任期後も帰京せずに海賊となり、939日振島(ひぶりじま)を根拠に挙兵、大宰府(だざいふ)を襲うが、941小野好古(おののよしふる)・源経基(みなもとのつねもと)らに敗れ、橘遠保(たちばなのとおやす)に討たれた(藤原純友の乱)。

藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)
 (1162-1241) 歌人。公卿。京極中納言。俊成(しゅんぜい・としなり)の子。後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に認められ、1205藤原家隆(いえたか・かりゅう)らとともに勅撰和歌集『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』を編集するが謹慎処分を受け、1221承久(じょうきゅう)の乱後の1235後堀河(ごほりかわ)天皇の命令で『新勅撰和歌集』を編集、小倉百人一首を選び、歌集『拾遺愚草(しゅういぐそう)』・歌論『近代秀歌』・日記『明月記(めいげつき)』などを残した。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)→恵美押勝(えみのおしかつ)
 (706-764) 公卿。大師(たいし。太政大臣)。南家の祖・武智麻呂(むちまろ)の子。聖武(しょうむ)天皇の大仏造立に協力し、光明皇后(こうみょうこうごう)に取り入って749紫微令(しびれい)・紫微内相(しびないしょう。内臣に相当)に就任、757橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の反乱を未然に防ぎ(橘奈良麻呂の変・乱)、758舎人親王(とねりしんのう)の王子・淳仁(じゅんにん)天皇を擁立、大師に昇って栄華を極めるが、764孝謙(こうけん)上皇のお気に入り・道鏡(どうきょう)の排除を図って近江で兵を挙げ、敗れて殺された(恵美押勝の乱)。
日朝味6

藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)
 (?-740)官人。藤原宇合(うまかい)の子。藤原不比等(ふひと)の孫。式部少輔(しきぶのしょう・しきぶしょうゆう)・大養徳守(おおやまとのかみ)を務めた後、大宰少弐(だざいしょうに)に左遷、橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問・玄ム(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)の排除を要求して大宰府で挙兵するが、大野東人(おおののあずまひと)率いる征討軍に敗死した。
暴発味

仏教(ぶっきょう)
 釈迦(しゃか)を開祖とする宗教。日本には欽明(きんめい)天皇の時代に百済の国王・聖明王(せいめいおう)によってもたらされた。年代については552説(『日本書紀』による)と538説(『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』による)がある。これを「仏教公伝」とするが、これ以前にも渡来人・司馬達等(しばたっと)が自宅で仏像を礼拝していたという(仏教私伝)。以後、従来からあった神道(しんとう)と並んでわが国に浸透した。

浮浪・逃亡(ふろう・とうぼう)浮逃(ふとう)
 浮浪は住所不定だが、本貫地で税は納めること。逃亡は行方不明で税も納めないこと。浮浪人・逃亡人は荘園などに流入した。

法王・法皇(ほうおう)
 766称徳(しょうとく)天皇が道鏡(どうきょう)に授けた称号。仏法の王の意か? 皇族の法皇の最初は899宇多法皇。

北条時頼(ほうじょうときより)
 (1227-1263) 鎌倉幕府五代執権(在職1246-1256)。時氏(ときうじ)の子。泰時(やすとき)の孫。1246兄の経時(つねとき)より執権職を譲られ、1246藤原頼経(よりつね)・名越光時(なごえみつとき)らを退け、1247宝治合戦(ほうじがっせん)で三浦泰村(みうらやすむら)を追討、1249引付衆(ひきつけしゅう)を設置し、1252皇族将軍・宗尊親王(むねたかしんのう)を擁立、執権退任後も実権を握り続け、諸国遍歴の伝説が生じた。

北条政子(ほうじょうまさこ)
 (1157-1225) 尼(あま)将軍。二位尼。源頼朝(みなもとのよりとも)の妻。北条時政(ほうじょうときまさ)の娘。北条義時(よしとき)らの姉。源頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)らの母。頼朝死後、父や弟とともに幕政を主導、1203将軍頼家を廃して比企能員(ひきよしかず)を討ち、実朝を擁立してこれを補佐、1205父を追放し、1219実朝横死後は都から摂家将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)を招聘(しょうへい)、1221承久(じょうきゅう)の乱では御家人たちを鼓舞して幕府に勝利をもたらせた。不倫味 排除味 栄光味3

北条泰時(ほうじょうやすとき)
 (1183-1242) 武将。鎌倉幕府三代執権(在職1224-1242)。義時(よしとき)の子。1221承久(じょうきゅう)の乱で叔父・北条時房(ときふさ)とともに京都へ進軍し、初代六波羅探題(ろくはらたんだい)北方に就任、1224父の死により執権を継ぎ、1225時房を連署(れんしょ。執権同格)に任命、評定衆(ひょうじょうしゅう。最高議決機関)を設置し、1232御成敗式目(ごせいばいしきもく。幕府基本法典。貞永式目とも)を制定、鎌倉市街を整備した。
善政味 栄光味

北条義時(ほうじょうよしとき)
 (1163-1224) 武将。鎌倉幕府二代執権(在職1213-1224)。時政(ときまさ)の子。父とともに源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に従軍、1205姉の政子(まさこ)とともに父を追放して政所(まんどころ)別当に就任、1213和田合戦(わだかっせん。和田氏の乱)で和田義盛(よしもり)を滅ぼし、侍所(さむらいどころ)別当を兼ねて執権政治を確立、1219三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺されると、摂家(藤原)将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)を迎え、1221承久(じょうきゅう)の乱に勝って後鳥羽(ごとば)上皇・順徳(じゅんとく)上皇・土御門(つちみかど)上皇を配流、仲恭(ちゅうきょう)天皇を後堀河(ごほりかわ)天皇に替え、多数の荘園を没収して新補地頭(しんぽじとう)を任命、朝廷監視のため六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置した。排除味 将軍味
栄光味 挑発味

北面の武士(ほくめんのぶし)
 院御所の北面の警備員。上皇直属軍。白河上皇の代に設置。武士の中央政界進出の足場になる。平正盛(たいらのまさもり)・佐藤義清(さとうよしきよ。後の西行)などが有名。

政所(まんどころ)
 公卿の家政機関。四位以下の公家の家政機関は公文所(くもんじょ)という。1190源頼朝(みなもとのよりとも)が権大納言(ごんだいなごん)・右近衛大将(うこのえたいしょう)任官を機に公文所を政所と改称した。初代別当は大江広元(おおえのひろもと)。1203北条時政(ほうじょうときまさ)が別当になってからは執権と呼ぶのが普通で、以後は北条氏が世襲した。室町幕府の政所は財政事務を担当、長官は執事(しつじ)といい、伊勢(いせ)氏が世襲した。⇒大江広元
⇒執権

水野忠邦(みずのただくに)
 (1794-1851) 老中(在職1828-1843,1843-1844)。肥前唐津(佐賀県唐津市)→遠江浜松(静岡県浜松市)藩主。忠光(ただあきら)の子。1815奏者番(そうじゃばん)、1817寺社奉行、1825大坂城代、1826京都所司代を経て1828老中に昇進、1839老中首座になり、1841-1843天保の改革を断行、1841質素倹約・風紀粛清などを行い、株仲間を解散、1842アヘン戦争に勝利したイギリスを意識して下田(しもだ)・羽田(はねた)・1843新潟奉行を設置し、人返しの法を発令、印旛沼(いんばぬま)を干拓するが、上知令(あげちれい。上地令)を老中・土井利位(どいとしつら)らに反発されて失脚した。改革味

源実朝(みなもとのさねとも)
 (1192-1219) 鎌倉幕府三代将軍(在職1203-1219)。源頼朝(よりとも)の次男。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。将軍を廃された兄・頼家(よりいえ)の後を継いで執権・北条義時(よしとき)らと政治を執り、和歌や蹴鞠に励んで歌集『金塊(きんかい)和歌集』を編集したが、右大臣就任祝いの時、鶴岡八幡宮で兄の子・公暁(くぎょう)に殺害された。将軍味

源義朝(みなもとのよしとも)
 (1123-1160) 武将。為義(ためよし)の子。頼朝・義経らの父。1153下野守となり、1154家督を継承、1156保元(ほうげん)の乱で後白河(ごしらかわ)天皇について勝ち、左馬頭(さまのかみ)に就任するが、清盛らと対立、1159平治(へいじ)の乱で院近臣・藤原信頼(ふじわらののぶより)と結び、院近臣・藤原信西(しんぜい。通憲)を討つが、平清盛(たいらのきよもり)に敗れ、東国へ落ち延びる途中、尾張で長田忠致(おさだただむね)に殺された。

源義仲(みなもとのよしなか)木曽(きそ)義仲
 (1154-1184) 武将。源義賢(よしかた)の子。源頼朝(よりとも)・義経(よしつね)らの従兄弟。父の死後、乳母の夫・中原兼遠(なかはらかねとお)に養育され、1180以仁王(もちひとおう)の令旨に応じて信濃木曽で挙兵、1181北陸道を制圧し、1183倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平氏を破って上洛、1184後白河法皇(ごしらかわほうおう)から征夷大将軍に任じられるが、源義経・範頼(のりより)兄弟に近江粟津(あわづ)で敗死した。
ウシ味

源頼家(みなもとのよりいえ)
 (1182-1204) 武将。鎌倉幕府二代将軍(在職1202-1203)。頼朝(よりとも)の子。実朝(さねとも)の兄。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。父の死後に家督を継いで将軍となったが、北条時政(ときまさ)など有力御家人に実権を奪われ(十三人の合議制)、1203巻き返しをはかるも失敗、妻の父・比企能員(ひきよしかず)と息子・一幡(いちまん)は殺され、自身も失脚して伊豆修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉され(比企能員の乱)、1204時政に殺されたという。

源頼朝(みなもとのよりとも)
 (1147-1199) 武将。鎌倉幕府初代将軍(在職1192-1199)。父は源義朝(よしとも)。1159平治(へいじ)の乱で父とともに平清盛(たいらのきよもり)と戦って敗れ、1160捕われて伊豆へ流刑、1180以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて伊豆で挙兵、石橋山(いしばしやま)の戦いで大庭景親(おおばかげちか)に敗れるが立て直し、富士川(ふじがわ)の戦いで平維盛(これもり)を撃退、鎌倉(かまくら)を本拠に軍事政権を築き(後の鎌倉幕府)、侍所(さむらいどころ)・1184公文所(くもんじょ。後の政所)・問注所(もんちゅうじょ)を設置、1185平氏を滅ぼし、諸国の守護(しゅご)・地頭(じとう)任命権と兵粮米(ひょうろうまい)の徴収を許され、1189奥州(おうしゅう)藤原氏を倒し、1190右近衛大将(うこのえたいしょう)・1192征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した。

三善康信(みよしやすのぶ)善信(ぜんしん)
 (1140-1221) 法律家。朝廷で太政官に勤め、1180源頼朝挙兵の際に京都の情報を提供、招かれて初代問注所(もんちゅうじょ)執事となり、頼朝・頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)三代に近侍、1221承久の乱では積極出撃策を支持した。

問注所(もんちゅうじょ)
 鎌倉幕府の司法官庁。室町幕府の文書保存官庁。1184源頼朝が設置。司法を担当。1249引付衆設置後は御家人の裁判は管轄外。長官は執事(初代は三善康信)。

流鏑馬(やぶさめ)
 騎射の練習法の一つ。笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおうもの)とともに騎射三物の一。狩装束を着て馬を走らせ、馬上から三つの的を次々と弓で射ていくもの。鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)などの神事で伝わっている。

有職故実(ゆうそくこじつ)
  朝廷の礼式(マナー)や先例に関する知識。またはそれを研究する学問のこと。

和歌(わか)
 日本固有の詩歌。古代歌謡の流れを汲む五音・七音を基調とする短歌・長歌・旋頭歌などの総称。『万葉集(まんようしゅう)』で確立され、平安時代以降は主に短歌をさすようになった。

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