2.金沢貞将死す! | ||||||||||||||
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一方、化粧坂を守っていた金沢貞将(かねざわさだまさ、北条貞将。武蔵守)殿も新田軍に背後を取られて坂を突破され、山内(神奈川県鎌倉市)で交戦、七か所に傷を負い、部下を八百余騎まで減らされて、得宗・北条高時様のいる東勝寺へ逃げ帰ってきました。
「面目次第もございません」
それでも、高時様は怒りませんでした。
それどころか、
「今までよく戦ってくれた」
と、貞将殿をほめ、六波羅探題に任じ、武蔵守から相模守に昇格させてくれたのです。
御教書を受け取った貞将殿は感極まりました。
「六波羅は長年望んでいた職です。これ以上の冥途(めいど)の土産はございませぬ」
貞将殿は御教書の裏に、
「我が百年の命を捨てて、公が一日の恩に報ず」
と、記して鎧(よろい)の中に差し入れると、
「俺の最期の本気を見せてくれるわー!」
と、叫んで、敵軍の雲霞の中に突撃していきました。
貞将殿の享年は三十二ともいわれています。
「貞将殿の最期はまことにアッパレでした」
「まさしく武士の鑑よ」
塩田家の人々は口々にほめていましたが、拙者は納得いきませんでした。
(犬死にじゃないか!)
しかも、死ぬ間際に官職をもらったところで、報酬はもらえないのです。
(官職というものは報酬をもらってナンボじゃねえか!拙者は報酬をもらえない官職なんていらない!そんなもんもらうくらいなら、生きて生きて生きまくってやらー!)
※ 金沢貞将が死ぬ前に任じられたのは、六波羅探題ではなく執権だったという説が有力になっています。