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 〜 安土桃山時代のお笑い芸人・曽呂利新左衛門!!

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芸人恐るべし〜曽呂利新左衛門は実在したか?
1.新左衛門はいつ登場したか?
2.豊臣秀吉はサルそっくりか?
3.瓢箪からホントに駒は出るか?
4.黒駒騒動をどう収めたか?
5.新左衛門はなぜ狂歌がうまいか?
6.世界で一番大きな歌とは?
7.新左衛門はいつ没したか?

 芸人をなめてはいけない。
 お笑い芸人というものを軽く見てはいけない。
 芸は身を助けるものである。
 笑う門には福来たるものである。
 そして、お笑いを制するものは、天下を制するものである。

 先月、私は「時事チップス」にこんな駄作を載せた。

  「笑い」とはすべてをごまかす魔法なり

 芸人は、時として難攻不落の堅城ですら、あっさりと落としてしまうものである。
 一度や二度のことではない。
 歴史上、それは何度も繰り返されてきた。
 つい最近
(平成十九年一〜二月)も「痴事(ちじ。そのまんま東)」が「知事(東国原英夫)」になり、「猫(猫ひろし)」や「杓子(しゃくし。陣内智則)」が「美女(一般女性)」や「女優(藤原紀香)」を陥落させたばかりではないか(継続できるかどうかはまた別問題である)

 芸人は歴史を動かすものである。
 日本史上、最も有名な政変の一つ・乙巳の変もまた、芸人がかんでいた。
「お腰のものをお渡しくださいませませっ」
 時の最高執政者蘇我入鹿を吹き出させ、その警戒心を解き、その帯剣を取り上げたのは、名もなき芸人であった。
 そう。その名もなき芸人さえ存在しなければ、世紀の暗殺劇は起こらなかったわけである。

 というわけで今回は安土桃山時代の大芸人、天下人豊臣秀吉のお笑い寵臣(ちょうしん)、曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)を採り上げたい。

「曽呂利新左衛門って、一休さん(「元日味」参照)のような頓知(とんち)話で有名な人だろう。そもそも実在の人物なのか?」

 実在であろう。
 当時の公家日記『時慶卿記
(ときよしきょうき。西洞院時慶著)』天正十五年(1587)六月八日条に「ソロリ」なる芸人が豊臣秀次(とよとみひでつぐ。秀吉の甥)主催の茶会に出席しているし、江戸時代初期の仮名草子『昨日は今日の物語』にも「曽呂利」の名は登場している。
 また、彼の故郷である和泉には、邸宅跡まで現存しているという。

 一説に、江戸時代初期の茶人で落語の祖とされる安楽庵策伝(あんらくあんさくでん。金森長近の弟)と同一人物ともいわれている。年代的にも不自然ではないが、策伝の故郷は美濃である。

 豊臣秀吉は御存知のように「人たらし」の名人である。
 その天賦の才は、織田信長徳川家康以下並み居る武将たちの比ではない。彼が「日本語圏」を完全統一成し得た一番の要素はそこにある。
 秀吉は「話術」を重く見、「お笑い」を重視していた。
「御伽衆
(おとぎしゅう。主君の話相手をする家来)」と呼ばれる芸人軍団も、他の武将以上に多数召抱えていたのである。
 あるいは「曽呂利新左衛門」という名は、秀吉直属お笑い軍団の「総称」だったのかもしれない。

[2007年2月末日執筆]
参考文献はコチラ

「曽呂利新左衛門」登場人物

【曽呂利新左衛門】そろりしんざえもん。大芸人。

【津田宗及】つだそうぎゅう・そうきゅう。堺の豪商。
【今井宗久】いまいそうきゅう。堺の豪商。
【千 利休】せんのりきゅう。堺の豪商・茶人。

【徳川家康】とくがわいえやす。武将。遠江浜松城主。
【前田利家】まえだとしいえ。武将。加賀金沢城主。
【上杉景勝】うえすぎかげかつ。武将。越後春日山城主。
【蒲生氏郷】がもううじさと。武将。伊勢松坂城主。

【福島正則】ふくしままさのり。武将。伊予今治城主。
【加藤清正】かとうきよまさ。武将。肥後隈本城主。
【細川幽斎(藤孝)】ほそかわゆうさい(ふじたか)。武将・歌人。
【長束正家】なつかまさいえ。武将。兵糧奉行。

【京の女子供】
【秀吉の近習たち】
【秀吉の右筆】
【豊臣軍の人々】
【北条軍の人々】

【織田(北畠)信雄】
おだ(きたばたけ)のぶかつ・のぶお。内大臣。

【豊臣(羽柴)秀吉】とよとみ(はしば)ひでよし。武将。天下人。

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