1.新左衛門はいつ登場したか?

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芸人恐るべし〜曽呂利新左衛門は実在したか?
1.新左衛門はいつ登場したか?
2.豊臣秀吉はサルそっくりか?
3.瓢箪からホントに駒は出るか?
4.黒駒騒動をどう収めたか?
5.新左衛門はなぜ狂歌がうまいか?
6.世界で一番大きな歌とは?
7.新左衛門はいつ没したか?

 天正十三年(1585)四月、羽柴秀吉は四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか。長曽我部元親)を攻めるため、に本陣を置いた。
 そのため津田宗及
(つだそうぎゅう・そうきゅう)、今井宗久(いまいそうきゅう)千利休の豪商たちは、連日のように秀吉の接待に追われた。
「いらっしゃいませー」
「ようこそへ、天下さまー」
「どうぞいつまでも御滞在くだされ〜」
 本当は早く帰ってほしいのに、心にもないことを言ってもてなしたのである。
 しかも、四国に渡った軍勢
(秀吉の弟・羽柴秀長軍等)が連戦連勝したため、秀吉は海を渡ることなく、ずっとに居座っていた。

曽呂利新左衛門PROFILE
【生没年】 ?-?
【別 名】 杉本甚右衛門(彦右衛門)
・杉森甚右衛門・坂内(坂田)宗拾
【出 身】 和泉国大鳥郡(大阪府堺市)
【本 拠】 和泉国堺(大阪府堺市)
【職 業】 職人(鞘師)・芸人
【役 職】 御伽衆
【 師 】 武野紹鴎(茶道)・志野宗心(香道)
【主 君】 豊臣秀吉
【墓 所】 妙法寺(堺市堺区)

 宗及らは困った。
「ああ、まだおらはる〜」
「こんな毎日毎日接待では、カネがなくなってしまうわ〜」
「筑前
(羽柴筑前守秀吉)に食わせるメシはねえ!」
 そんな折、町の広場にこんな立て札が立った。

  筑前が四石の米を買いかねて
   今日も五斗買い明日も五斗買い

 歌中の「四石」は「四国」で「五斗買い」は「御渡海」に入れ替わる。つまり、商人たちの不満を代弁した狂歌である。
「ヒッヒッヒ、こりゃ傑作だわい」
 宗及らは吹き出したが、秀吉はカチンときた。
「この歌を作ったのは誰じゃ?」
 宗及には心当たりがあった。
「はあ、おそらくアレかと――」
「わかっておるなら早く呼べ!」

 ほどなく、狂歌の主がやって来た。
「なんでっしゃろ?」
 ほかならぬ曽呂利新左衛門であった。
 秀吉は聞いた。
「お前か。わしを愚弄
(ぐろう)する歌を詠(うた)ったのは?」
「へい。愚弄ではなく、単なる疑問の歌でございますが――」
「弁解はよい。それにしてもお前、若者にも年寄りのようにも見えるおもしろい顔をしている。年はいくつじゃ?」
「さあ。それがはっきりしないんで。どうも私が生まれことというのは、世間的にはたいして重大事でなかったようで、周囲の人が誰一人として覚えてないんですよ」
「なんだそれは。では、名は何と申す?」
「へえ。曽呂利の新左衛門で」
「ソロリ?」
「へい。本名は杉本甚右衛門
(すぎもとじんえもん)、剃髪(ていはつ)後は坂内宗拾(さかうちそうしゅう)と申しますが、私の作る鞘(さや)がソロリソロリと刀身に収まるいうことで、いつの間にやらソロリの新左衛門と呼ばれるようになりました」
「ほう。鞘師か。しかも腕がいいと見える。一つ作ってほしいものじゃ」
「報酬は高いでっせ」
「ふん。おもしろそうなヤツじゃ。ついでにその減らず口でもって、わしに仕えよ」

 こうして新左衛門は御伽衆(おとぎしゅう)として秀吉に仕えることになった。

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