1.天平の面影 | ||||||||||||||
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織田信長 PROFILE | |
【生没年】 | 1534-1582 |
【別 名】 | 吉法師・三郎 |
【出 身】 | 尾張国那古屋城(名古屋市中区) |
【本 拠】 | 尾張那古屋城→尾張清洲城(愛知県清須市) →尾張小牧山城(愛知県小牧市) →美濃岐阜城(岐阜県岐阜市)→近江安土城(滋賀県安土町) |
【職 業】 | 武将・政治家 |
【役 職】 | 上総介→弾正忠→参議→権大納言・右近衛大将 →内大臣・右大将→右大臣・右大将 |
【位 階】 | 正四位下→従三位→正三位→従二位→正二位 |
【 父 】 | 織田信秀(尾張古渡城主・勝幡城主・末盛城主) |
【 母 】 | 土田氏 |
【兄 弟】 | 織田信広・信行・信包・信治・秀俊(信時)・信興・秀孝・秀成 ・信照・長益(有楽)・長利・女(神保氏張・稲葉一鉄室) ・女(織田信清室)・女(斎藤道三室)・女(苗木勘太郎室) ・お市(浅井長政・柴田勝家室)・女(織田信直室)・女(織田信成室) ・お犬(佐治為興・細川昭元室)・女(飯尾信宗室)・女(牧長清室) ・女(津田元秀室) |
【 妻 】 | 帰蝶(濃姫。斎藤道三の娘)・吉乃(生駒氏)・坂氏ら |
【 子 】 | 織田信忠・北畠信雄・神戸信孝・羽柴秀勝・武田勝長・信秀 ・信高・信吉・信貞・信好・長次・信正・徳姫(松平信康室) ・冬姫(蒲生氏郷室)・女(前田利長室)・女(丹羽長重室) ・女(二条昭実室)・女(筒井定次室)・女(水野忠胤・佐治一成質) ・女(万里小路充房室)・三の丸殿(豊臣秀吉室)・女(中川秀政室) ・女(徳大寺実冬室)・養女(武田勝頼室) |
【主 君】 | 足利義昭 |
【 師 】 | 平手政秀・沢彦・斎藤道三・林秀貞(通勝)ら |
【盟 友】 | 徳川家康ら |
【部 下】 | 柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・羽柴(豊臣)秀吉・明智光秀 ・滝川一益・佐々成政・前田利家・池田恒興(信輝)・蜂屋頼隆 ・河尻秀隆・村井貞勝・森長可・細川藤孝(幽斎)・佐久間盛政ら |
【仇 敵】 | 今川義元・斎藤竜興・顕如・足利義昭・武田信玄・武田勝頼 ・上杉謙信・浅井長政・朝倉義景・松永久秀・毛利輝元ら |
【墓 地】 | 大徳寺総見院(京都市北区)・本能寺(京都市中京区) ・妙心寺玉鳳院(京都市右京区)など |
【霊 地】 | 建勲神社(京都市北区)など |
「キンカ頭」
明智光秀(近江坂本城主)のあだ名である。
こう呼ぶのは、主君の織田信長しかなかった。
「はあ」
「茶室へ来い」
二人っきりである。ビクビクである。光秀は小さくなって信長の後に入った。
信長が白天目を見せた。
「本願寺光佐(ほんがんじこうさ)、顕如(けんにょ)が和平のあかしとして献上してきた」
信長は茶を立てて光秀に前に置いた。
「――その顕如は、三か月もせぬうちにキバをむき、一揆を扇動して越前一国を奪いよった」
いわゆる「越前の一向一揆」である。
天正元年(1573)八月、信長は朝倉義景(あさくらよしかげ。越前一乗谷城主。「大雪味」参照)を滅ぼして越前を領国化したが、天正二年(1574)一月に一揆に奪われ、再び敵国となっていた。
信長は、羽柴秀吉(近江長浜城主)・武藤舜秀(むとうしゅんしょう)・丹羽長秀(にわながひで。近江佐和山城主)らを越前敦賀(つるが。福井県敦賀市)へ向かわせたが、守るだけで精一杯である。
一方、甲斐の戦国大名・武田勝頼(甲斐躑躅ヶ崎館主)も動き始めた。
少し後の話であるが、美濃明智城(岐阜県恵那市。織田領)や遠江高天神城(静岡県掛川市。徳川領)を落とすなど、その父・武田信玄の代よりも領土を拡張することになる(「人質味」「銃器味」参照)。
光秀は茶を飲んだ。
味で安心した。
「本日は御機嫌がよろしいようで」
「いつもは機嫌が悪いように申すな」
信長は苦笑した。
「今日は縁談を持ってきた。なんじの娘二人を(織田)信澄(のぶずみ)と細川与一郎(ほそかわよいちろう。忠興。藤孝の子)の嫁に、息子の一人を筒井順慶(つついじゅんけい)の養子とせよ」
信澄は信長の甥(おい。「織田氏系図」参照)、細川氏は元管領家、筒井氏は大和の実力者。光秀にとって不満はなかった。
「ありがたき幸せ」
平伏した光秀は、再び顔を上げて尋ねた。
「――ということは、私に仕事を?」
「そうだ。石山本願寺を食い止めるため、西の壁となれ」
「御意」
「余は四方を敵に囲まれている。北に越前一向一揆。東に武田勝頼。南に長島一向一揆。西に石山本願寺。まさしく四面楚歌(しめんそか)じゃ。この状況を打破するためには、三方を壁でふさいでおき、総力挙げて残りの一方を殲滅(せんめつ)するよりほかあるまい」
「なるほど。東を徳川家康殿、北を羽柴秀吉殿、西を私に任せ、上様は南の長島一向一揆を討とうというわけですね?」
「うむ。長島攻めは二度失敗しているゆえ、もはや失敗は許されぬ。ゆえに長島攻めには、織田軍のほぼ全軍を投入する」
「しかし、長島攻めに兵を使いすぎれば、三方の壁が薄くなってしまうのでは?」
「それを補うために、なんじは四国の長宗我部元親と結べ。東西から挟撃されれば、顕如も容易に動けまい。また、東の壁は破られることはあるまい。裏切りだけが気がかりゆえ、三河殿(家康)には大量の黄金を贈り届けておく。北は上杉謙信に加勢させる。謙信には越前および加賀の一向一揆の背後を突いてもらう」
「なるほど。長宗我部は動きましょう。しかし権威を重んじる謙信が、前将軍(足利義昭)を追放した上様にお味方するでしょうか?」
「権威は幕府だけではない。朝廷もあれば、南都(なんと。奈良。奈良県奈良市)諸寺もある。余が朝廷や南都から信頼されていることを示せば、必ずや謙信は動くであろう」
「何か良いお考えがおありで?」
「蘭麝待(らんじゃたい)を切る」
「ひえ!あの天下の名香を!」
蘭麝待とは、東大寺正倉院宝物の一つである。
香道では天下第一の香木とされ、それを賜ることは勅許を必要とした。
下賜されたと記録にあるのは平安時代の武将・源頼政(「暴走味」参照)から室町幕府八代将軍・足利義政までの数人で、それ以降は将軍ですら誰も手にすることはできなかった。
「なるほど。歴代将軍が手に入れることがかなわなかった蘭麝待を賜ったお方の命令となれば、権威に弱い謙信は動くしかありますまい」
茶を飲み終えた光秀は、白天目を返した。
その時、信長のわきに小さな仏像が置いてあるのが目に入った。
光秀は意外に思った。
「それって、仏像ですよね?」
「ああ。戦勝を祈願しておった」
「拝見したところ、その仏像は薬師仏かと存じます。戦勝を祈願するような仏の種類ではないかと存じますが」
信長は笑った。
「さようなことは、仏を信じぬ余の知ったことではないわ」
天正二年(1574)年三月、信長は上洛、朝廷に蘭麝待を所望して勅許を得ると、二十七日に大和多聞山(たもんやま。多聞。奈良県奈良市)城に移り、二十八日に東大寺にて蘭麝待を一寸八分切った。
信長が直接切ったのではなく、塙重友(ばんしげとも。原田直政)・菅屋長頼(すがやながより)・佐久間信盛(さくまのぶもり。近江永原城主)・柴田勝家(近江長光寺城主)・丹羽長秀(にわながひで)・蜂屋頼隆(はちやよりたか)らに東大寺へ切りに行かせたという。
切り取られた蘭麝待は、多聞山城にて家臣たちに披露された。
「みなの者、これが有名な蘭麝待だ。末代までの物語に拝見しておけ」
「おお!これが有名なランジャタイか」
「スゲー」
「ただの木っ端に見えないこともないですが」
権威付けには十分であった。
信長は、拝領した蘭麝待のうち、三分の一を切り取って持って帰ったが、残りの三分の二は細かく砕いて大勢の家臣たちに分配したという。
六月、信長は狩野永徳に描かせた「洛中洛外図屏風」を謙信に贈った。
おそらく、一緒に蘭麝待のカケラも贈ったのであろう。
「何とぞ、一向一揆の背後を突いていただきたい」
謙信は動いた。動かざるを得なかった。
七月に越中を平定すると、加賀にも侵攻したのである。