5.梶原景時の変

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5.梶原景時の変

 清美関があった清見潟(きよみがた)は興津にある海岸である。
 庵原
(いはら)山地が駿河湾へ迫り、古来、風光明媚(ふうこうめいび)な景勝地とされてきた。
「いい景色ですね〜」
 梶原景時の長男・梶原景季
(かげすえ)が目を細めた。
 一行は一族総出で京都へ向かっていたのである。
「ゆっくりしてはいられない」
 景時は馬を進めた。
「追手が来ますか?」
 二男・梶原景高も馬を寄せてきた。
「そのつもりならもっと早く仕掛けてくるはずだ」
「ですよねー」
「しかし油断は大敵だ」
 三男・梶原景茂が茂みを指さして言った。
「たとえばこんな茂みに伏兵とか」
「わははは!」
 笑ってはいられなかった。
 ヒュン!ヒュン!ぱらっぱらぱら!
 本当に茂みから矢が飛んできたのである。

 バラバラと怪しいヤツらが飛び出してきて次々と名乗った。
「よくここに隠れていることがわかったな。拙者は貴様らを殺しに来た廬原小次郎
(いおはらこじろう)
「同じく工藤八郎
(くどうはちろう)
「同じく三沢小次郎
(みさわこじろう)
「同じく飯田五郎家義
(いいだごろういえよし)
「同じくその他大勢」
 景時が聞いた。
「誰に頼まれて殺しにきた?将軍か?」
「これから死ぬ貴様らに言っても無駄なことだ!者ども、かかれー!」
「おおー!」
「父上、どうしましょう?」
 景高に聞かれた景時は指示した。
「逃げろ!」
「ははっ」
 梶原一行は一斉に逃げた。
「逃がすな!追えー!」

 日は落ち、月が出てきたが、追手は数を増してきた。
 吉川友兼
(きっかわともかね。吉香小次郎)・矢部家綱(やべいえつな)・船越三郎(ふなこしさぶろう)ら新手が加わったのである。
「逃げ切れぬな」
 弱音を吐く景時を、景茂が励ました。
「戦えばいいじゃないですか!」
 梶原一行は狐ヶ崎
(きつねがさき。清水区)でとどまって応戦した。
「やあやあ我こそは桓武天皇
(「怨念味」「怨霊味」等参照)の後胤、梶原平太景時の三男・梶原景茂なるぞ!出会えー!」
「藤原南家工藤氏流、吉川小次郎友兼!お相手いたす!」
 ちゃーん!
 ちゃりーん!
 ぎりぎりぎり!
 ブス!ボス!
「うぬぬぬ……」
「ぬおおお……」
 ほぼ相打ちであったが、月光の下、首を掲げて立ち上がったのは友兼であった。
「梶原景茂、吉川小次郎友兼が討ち取ったりー!」
 が、深手を負った友兼もまた、後日落命している。
 ちなみにこの時の刀が旧周防岩国藩主吉川家の家宝として現存する名刀「狐ヶ崎」である。

現在の梶原山周辺(静岡市葵区)

 景茂討ち死に後は総崩れであった。
 景茂の弟たちは次々に討ち取られ、景時は負傷した景季と景高ともに夕日無山
(梶原山)に逃れた。
 景時は愛馬「磨墨」の鞍を取り外すと、
「よくこれまで働いてくれた。暇をつかわす。良い主人を見つけて生き長らえよ」
 と、命じたが、「磨墨」は少しだけ歩いた後、バタリと倒れて動かなくなってしまった。
「父上。公文書、どっかいっちゃいました……。歴史を変えることはできませんでした……」
「我々は反逆者として後世に名を残すんでしょうか?」
 景時は息子たちに言った。
「そんなことはない。我々の告発は失敗したが、いずれ後世の史家がおかしな点に気づいてくれるはずだ。我々はそれまで待てばいいだけだ。我々には長い時間がある。永遠と同じ長さのな」
 景時らは自害した。
 時に正治二年(1200)一月二十日。
 景時の享年は六十一、景季は三十九、景高は三十六とされている。

 最後に景時の辞世の句を紹介したい。

  もつのふ(武士)のかくこ(覚悟)もかかる時にこそ 心の知らぬ名のみをしけれ

[2014年1月末日執筆]
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