3.裏切!荻野兄弟!!

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日本は改憲すべきか?
1.没収!山名満幸!!
2.報告!古山満藤!!
3.裏切!荻野兄弟!!
4.鬼神!小林義繁!!
5.玉砕!大足一族!!
6.身代!松田将監!!

 明徳二年・元中八年(1391)十二月二十六日、山名満幸は丹波の篠村(しのむら。京都府亀岡市)で軍議を開いた。
「決戦は明日。我が軍はどこに陣を布けばいいか?」
 大足宗信
(おおあしむねのぶ。大葦次郎左衛門尉)が進言した。
「明日というより今夜中に山を越え、峰の堂
(みねのどう。京都市西京区)辺りに陣を布いておくべきでしょう。敵はすでに我が軍が丹波まで来ていることを知っておりましょう。さすれば今夜中に桂川を渡り、大枝山(おおえやま。西京区。山城・丹波国境)を封鎖するはずです。国境の戦いになっては長期戦は必定。明日の決戦には間に合いませぬ」
「そのとおりだな」
 満幸はその晩のうちに山を越え、山城峰の堂に陣した。

 明けて二十七日の朝になると、闇と霧の中から内野の大軍が姿を現した。
「おおっ!敵がいっぱいいます!」
「それに比べて八幡の軍勢が少ないようだが」
氏清さまは河内の遊佐国長の抵抗にあい、到着が遅れているようです。で、決戦は三十日にされたしと」
 もちろん当時は旧暦であり、三十日ということは大晦日
(おおみそか)である。
 満幸は苦笑した。
「ふっ、年をまたいで戦かよ」

● 内野の戦山名軍陣容
進軍予定地
主な武将 兵力
八幡→峰の堂?→上桂→四条大路 山名高義
・小林義繁
約700騎
八幡→淀→鳥羽→竹田→二条大路 山名氏家 約300騎
峰の堂→久我→西岡→下桂→七条大路 山名氏清 約2,000騎
峰の堂→梅津→仁和寺→一条大路 大足宗信 約300騎
峰の堂→梅津→二条大路 山名満幸 約1700騎
山名軍合計 約5000騎

 が、ようやく八幡に到着し、内野の大軍を見下ろした山名氏清は、そうは思わなかった。
「何ということだ。当然将軍は東山か比叡山に陣を布くと思っていたが、平地の内野に布いてきたか。つまり将軍は長期戦を望んでいないということだ。戦は一日で終わるであろう」
「それでこそ将軍!」
「鬼こごめ」と恐れられた山名高義
(たかよし。氏清の弟。義数とも)と小林義繁(こばやしよししげ)が長刀をブルンブルン振り回して奮い立った。
「明日は年末大掃除と行きますか」
「腕が鳴るぜえ!」
 氏清は思わず吹き出した。
 彼は髪を切り、歌を詠むと、それを和泉
(大阪府堺市)にいる妻の元へと送り届けさせた。

 十二月二十九日夜、ついに八幡・峰の堂両陣に動きがあった。
 氏清軍三千騎は三手に、満幸軍二千騎は二手に分かれ、それぞれ南と西から京を目指したのである。
 山名軍の陣容は右のとおり。

「ワー!ワー!」
 十二月三十日未明の桂川を渡る山名軍の中に、ひときわ元気な一団があった。
 じゃっぱん、じゃっぱん。
「一番乗りだぜー!」
 丹波の住人、荻野重定
(しげさだ)・重国(しげくに)兄弟率いる五十騎であった。
 彼らが真っ先に川を渡ったのには理由があった。
『山名を裏切れば褒美を取らせる』
 敵方の参謀格・細川頼之からお誘いを受けていたのである。
「わーい!とっとと管領後見さまのもとへ投降して出世するぞー!」
「ケッ!山名がなんだってんだー!」
 ところが、荻野兄弟の裏切りは、氏清軍の先発隊大将・小林義繁によって見破られた。
「あやつらを射よ」
「え!あれは丹波勢、お味方ですよ」
「分からぬのか?あやつらは幕府方に投降するつもりなのじゃ。射よっ!」
「え!マジで!?」
 ぴゅんぴゅんぴゅん!
 矢が雨のように放たれ、荻野勢はバタバタと川の中に倒れた。
「ゲッ!バレた!」
「もう逃げ切るしかねえー!」
 じゃばじゃばじゃば!
 ぴゅんぴゅんぴゅぴゅん!
「やべ!追いついてきた!」
「また矢が飛んできた!かわいい家来ども、主君のために身を張って楯になれ!」
「いやですー!」
 ぱら!ぱら!ぱららん!
 ぷす!ぷす!ぷす!
「刺さったぁ〜」
「いたいです〜」
「置いてかないでぇ〜」
 ぶくぶくぶく〜う。

 荻野勢は五十騎中四十六騎まで討ち取られたが、荻野兄弟ほか二名はほうほうの体で頼之の陣まで逃げ切った。
「ハアッ、ハアッ、家来はほとんど討ち取られました〜」
 頼之はほめたたえた。
「さすがだ!それでこそ人としての究極の生き方だ!」
「ごほうび〜」
「せかすな。まずはそちらが知っている山名軍の作戦の限りを、将軍さまの御前でとくと語ってもらおう」
「ははーっ」

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