1.秘密!伊予親王!! | ||||||||||||||
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延暦二十五年(806)三月十七日、桓武天皇は七十歳で崩御した(「怨霊味」参照)。
「父上ぇ〜」
後継者・安殿親王はだびだひに号泣し、しばらく立ち上がることはできなかった。
「さあ、お立ちください」
参議(≒大臣)兼征夷大将軍(同年中納言に昇格)・坂上田村麻呂が促した。
「あなた様の御世がやってきたんですよ」
抱え起こしたのは権参議(この年参議に昇格)・藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ。小黒麻呂の子)。
「朕(ちん)の御世……」
安殿親王はある女を思い出した。
いや、それはひと時も忘れたことのない、寝ても覚めても恋焦がれた永遠の女性であった。
「朕の御世ということは、朕の思うがままのことができるんだね?禁じられていた女を呼び戻すことも可能なんだね?」
例の妖女(ようじょ)・藤原薬子である。
安殿親王は葛野麻呂に聞いた。
「お前はそれでいいんだね?」
実は薬子は安殿親王と引き離された後、いちおう旧夫・藤原縄主(ただぬし)の元に戻ったのであるが、葛野麻呂とも不倫関係にあったのである。
葛野麻呂もそろそろ清算しようと思っていた折である。これ以上のきっかけはなかった。
「もちろんですとも!」
「やったー!」
後宮十二司 |
内侍司(ないしのつかさ) 蔵司(くらのつかさ) 書司(ふみのつかさ) 薬司(くすりのつかさ・やくし) 兵司(つわもののつかさ) 御門司(みかどのつかさ) 殿司(とのもりのつかさ・でんし) 掃司(かにもりのつかさ・そうし) 水司(もいとりのつかさ・すいし) 膳司(ぜんし) 酒司(みきのつかさ) 縫司(ぬいのつかさ) |
同日、安殿親王は践祚(せんそ。皇位継承)した。
伝五十一代平城天皇である。
五月には即位し「大同」と改元した。
で、さっそく後宮に薬子を呼び寄せると、典侍(ないしのすけ。後宮十二司の筆頭・内侍司次官)に任じたのである(まもなく内侍司長官・尚侍に昇格)。
「薬子〜!逢いたかったよぉ〜!」
「あたしも〜。でへっ!」
さて、問題があった。
皇太子を誰にするかであった。
平城天皇には子がないわけではなかった。
葛井藤子(ふじいのふじこ)所生の阿保親王(あぼしんのう。「安保味」参照)がいたし、伊勢継子(いせのつぎこ)所生の高岳親王(たかおかしんのう。高丘親王とも。「不戦味」参照)もいた(「天皇家系図」参照)。
が、平城天皇はこれらを皇太子にすることを嫌がった。
「朕が帝位を継がせたいのは、最愛の女性との子だけだ。つまり薬子。これから君との間に生まれた子が帝位を継承するんだよ」
「そんな〜。私はもうおばあちゃんですから、子供はできませんよぉ〜」
「そんなことはない。きっとできるよっ」
「自信たっぷり〜。なんか根拠があるんですかぁ〜?」
「あるよ」
「どんな〜?」
「君がきれいだからだよー!」
「そんな〜。恥ずかしいですぅ〜。でへっ!」
将来、薬子との子を皇太子にするとしても、暫定皇太子は必要であった。
平城天皇は決めた。
「仕方がない。弟を皇太子(皇太弟)にするか」
これには賛成の人々がいた。
「それはよろしいことです!」
「ぜひぜひ伊予親王(いよしんのう)殿下を皇太子に!」
政界のナンバーツー大納言・藤原雄友(おとも・かつとも)や、ナンバースリー中納言・藤原乙叡(たかとし・おとえい)ら南家の人々であった(「南家系図」参照)。
特に雄友は伊予親王の生母・藤原吉子(よしこ・きっし)の兄であったため、諸手を挙げての大賛成であった。
「あはっ!おれって権力街道まっしぐら〜?」
こう言うと、変に思われる方もおられるであろう。
「あれ?伊予親王は第三皇子だから、第二皇子の神野親王が皇太子候補だろう?」
ここでそう思われている方のために、平城天皇及び彼の主な弟たちの誕生年と元服(成人式)年を下記に挙げてみた。
御 名 | 誕生−元服年 | … | 兄弟順 |
平城天皇 | 774年−788年 | … | 桓武天皇第一皇子 |
神野親王 | 786年−799年 | … | 桓武天皇第三皇子 |
大伴親王 | 786年−798年 | … | 桓武天皇第三皇子 |
伊予親王 | ?年 −792年 | … | 桓武天皇第三皇子 |
葛原親王 | 786年−798年 | … | 桓武天皇第三皇子 |
万多親王 | 788年−801年 | … | 桓武天皇第五皇子 |
※ 以下の弟は省略。 |
これを見て、ますます訳がわからなくなった方も多いことであろう。
「何で桓武天皇の第三皇子が四人もいるんだー!?」
実は神野親王と大伴親王(後の淳和天皇)と葛原親王(かずらわら・かずらはらしんのう。桓武平氏の祖)は御覧のように同年生まれであり、伊予親王の誕生年は不明のため、正確な兄弟順がわからないのである。だから『国史大辞典』などにも「四人そろって第三皇子」というおかしな記載がされているのである。
それでも、ほぼ正確な兄弟順を元服年齢から推測することができる。元服は当然、年長順になされたはずだからである。
で、改めて元服順に元服年齢を添えて下記に並び替えてみた。
御 名 | 誕生年−元服年=元服時年齢 | … | 推定兄弟順 |
平城天皇 | 774年−788年=15歳 | … | 桓武天皇の長男 |
伊予親王 | ?年 −792年=?歳 | … | 桓武天皇の三男 |
大伴親王 | 786年−798年=13歳 | … | 桓武天皇の四or五男 |
葛原親王 | 786年−798年=13歳 | … | 桓武天皇の四or五男 |
神野親王 | 786年−799年=14歳 | … | 桓武天皇の六男 |
万多親王 | 788年−801年=14歳 | … | 桓武天皇の七男 |
※ 桓武天皇の次男は臣籍降下済みの良岑安世(よしみねのやすよ) |
こうしてみると、不明である伊予親王の誕生年もメボシがついてきた。病弱であった平城天皇のほかはみな十三、四歳で元服していることに気づけば、伊予親王の誕生年も、
779年or780年
と導き出されるわけである。仮に平城天皇と同じ十五歳で元服したとしても、伊予親王が平城天皇のすぐ下の弟であったことに変動はない。
これでお分かりであろう。
平城天皇の弟の中から皇太子を選ぶとすれば、当然、年長であり、南家という強力な後援もある伊予親王が最有力候補であったはずなのである。
「弟を皇太子にするか」
平城天皇の決断を聞いて、南家連中が喜んだ理由はそういうわけなのであった。
ここで疑問が生じるかもしれない。
「どうして桓武天皇の六男である神野親王が後世に第二皇子のような扱い方をされたのであろうか?」
理由は簡単である。
この時期を記録した史書『日本後紀』の編修を命令した人物こそ神野親王、つまり嵯峨天皇その人だからである。