6.転換!藤原仲成!!

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奈良という古都
1.秘密!伊予親王!!
2.忠告!藤原緒嗣!!
3.勧誘!藤原宗成!!
4.扇動!藤原雄友!!
5.窮鼠!藤原内麻呂!!
6.転換!藤原仲成!!

 左衛士府に護送された藤原宗成は、衛士たちに尋問されても罪を認めなかった。
「おれはやってない!」
「謀反を勧めたんだろう?」
「あれは独り言だ!」
「誰の差し金だ?」
「だから、独り言だって!」
 衛士たちは困り果てた。
 藤原仲成に報告した。
「ダメです。口を割りません。手荒に痛めつけてやりますか?」
 仲成が言った。
「いや。おれがじきじきに尋問してやる」

 仲成は宗成のいる房へ出向いた。
 宗成は仲成の顔を見て驚いた。
「あ、あんたは……」
 仲成衛士たちに命じた。
「おまえたちは外で待っていろ」
「でも――」
「大丈夫だ。何かあったら呼ぶ」
「了解」

八逆(八虐)
謀反(むへん・ぼうへん)
謀大逆(ぼうたいぎゃく)
謀叛(むほん)
悪逆(あくぎゃく)
不道(ふどう)
大不敬(だいふけい)
不孝(ふこう)
不義(ふぎ)

 衛士たちが出て行くや否や、宗成がすり寄ってきた。
「助けに来てくれたのか?」
「まあな」
「よくここに入れたな」
「何しろ、おれは伊予親王殿下付きの身分だから」
「ああ、そうだったな。安心しろ。あんたのことはまだ吐いてない。でも、もう限界だ。いつ吐いてしまうかわからない。そうなる前に何とかして助けてくれないか?」
「無理だな」
「どうして?」
「謀反
(むへん)や謀叛(むほん)は八逆の中でも極めて重い最悪の大罪だ。そのような重罪を犯した者を助けることなどできるわけがないであろう」
 宗成は追い詰められた。
「なっ、何を言っているんだ!おれをそそのかしたのはあんたじゃないか!」
「え?なに〜?なんか言った〜?なんのこと〜?」
「ひでえ!悪いのはおれじゃない!あんたじゃねーかっ!」
「さっきからおまえ、おれのことを『あんた』って言ってるけど、名前を言ってみなよ」
「名前は――、知らない……」
「そうだろ?だったらおれがどうしてあのとき名前を明かさなかったかも、わかっているはずだけどな」
「クソッ!初めから自分だけ助かろうって魂胆だったのか!?」
「よーくわかっているじゃないか。あばよ、死刑囚よ」
 仲成はとっとと帰ろうとした。
 宗成はクックと笑った。
「あんたは助からない。助かるはずがなーいっ!」
「何だって?」
「確かにおれはあんたの名前は知らない。しかし、あんたの上司の名前は知っている。上司が謀反を起こせば、あんたも連座で処罰されるのだっ!」
「……!?」
 仲成は驚いた。正確には驚いたふりをした。
 宗成は大声を上げた。
「ワー!ぎゃおうー!!」
「何事です!」
 外で控えていた衛士たちがすぐに駆けつけてきた。
 宗成は衛士たちに向かって叫んだ。
「よーく聞けー!謀反の首謀者は伊予親王なりっ!おれは伊予親王にたばかられただけなのだっ!」
「な、なんだって!」
 衛士たちは色を失った。
 仲成はムッとした。怒ったように房を飛び出した後、ひそかにニヤリとした。
 宗成は叫び続けていた。
「ハッハッハ!どうだ!伊予親王こそ、真の謀反の首謀者だー!おれは何も悪くないんだぁー!」

 仲成平城天皇に報告した。
「左衛士府で藤原宗成を取調べたところ、真の謀反の首謀者は伊予親王とのこと」
「何だと!」
 平城天皇はちらと藤原真夏を見やってから、はたと思いついた。
「読めたぞ!伊予は南家と組んで北家を追い落とそうとたくらんだのだな?」
 仲成は否定しなかった。
「御意かと」
 真夏も否定する理由がなかった。
「まったく、とんでもないお方ですね」
 平城天皇は激怒した。
「伊予をひっ捕らえよ!」

 大同二年(807)十月、左近衛中将・安倍兄雄、左兵衛督・巨勢野足(こせののたり)ら兵百五十人が差し向けられ、伊予親王とその生母・藤原吉子(よしこ・きっし)が逮捕された。
「なぜだー!私は無実だー!」
「どーしてわらわまでぇー!」
 二人を取り調べた兄雄が平城天皇に報告した。
「どうも私には二人が無罪に思えてなりませんが……」
 仲成が聞いた。
「二人が無罪であれば、誰が有罪だというのですか?」
「そ、それは……」
 兄雄は答えられなかった。答えられるはずがなかった。

 伊予親王と吉子は大和の川原寺(かわらでら。弘福寺。奈良県明日香村)に幽閉されたが、翌十一月十二日に毒を飲んで心中したという(殺されたとも)
 後に、二人は無実が証明されて墓は山陵となり、伊予親王の墓を巨幡墓
(こはたのはか。京都市伏見区)、吉子の墓を大岡墓(おおおかのはか。京都市西京区)と称することになる。

 一方、藤原宗成も流刑に処せられた。
 藤原雄友もただではすまなかった。
 伊予親王の親類として連座で大納言ほかを解任され、伊予へ流刑にされたのである。
「なんでこうなるんだー!」
 次いで雄友の弟・友人
(ともひと)下野守に左遷された。
 もっと理不尽だったのが、中納言藤原乙叡である。
 平城天皇は、
「あんたも南家だし、無礼で気に食わないからクビ!」
 と、解官してしまったのであった。
「おれは関係ないよー!!不当だ!受け入れられねー!」
 乙叡はあまりにショックだったためか、その翌年に死んだ。享年四十八。

平城天皇政権閣僚(809)

官 職 官 位 氏 名  兼職・備考
右大臣 従二位 藤原内麻呂 左近衛大将。北家
中納言 正三位 坂上田村麻呂 右近衛大将。兵部卿。征夷大将軍
中納言 正三位 藤原葛野麻呂 式部卿。皇太子傳。北家
中納言 正三位 藤原園人 民部卿。北家
観察使 従三位 藤原縄主 西海道担当。大宰帥。式家
観察使 従三位 菅野真道 東海道担当。左大弁
観察使 正四位下 藤原緒嗣 東山道担当。侍従。衛門督。式家
観察使 正四位下 吉備 泉 南海道担当。刑部卿
観察使 従四位下 藤原仲成 北陸道担当。右兵衛督。
大蔵卿。常陸守→伊予守。式家
観察使 従四位下 藤原真夏 山陰道担当。美作守。北家
観察使 従四位下 紀 広浜 畿内担当。右大弁。内蔵頭。上野守
観察使 従四位下 多 入鹿 山陽道担当。左京大夫
※ 青字は同年昇進。

 こうして南家は一気に衰退した。
 南家以外でも、伊予親王の子の継枝王
(つぐえおう)や高枝王(たかえおう)らが流刑にされ、北陸道観察使を務めていた秋篠安人(あきしののやすひと)が造西寺長官(ぞうさいじちょうかん)に左遷され、吉子の母方の親類の橘安麻呂(たちばなのやすまろ)・橘永継(ながつぐ)らも排除された(「橘氏系図」参照)
 仲成は内麻呂以下北家の追い落としには成功しなかったが、満足していた。
「なーに。あせることはない。権力は我が手中にあるのだ」

 大同四年(809)四月、仲成は北陸道観察使(参議格)として公卿になった。
 藤原緒嗣が家族を連れて祝宴にやって来た。
「いやー、めでたいです。これで式家の公卿は三人になりました。北家も四人に増えましたけどね」
 仲成と同時に真夏も山陰道観察使として入閣していた。
 緒嗣の子・家緒
(いえお)が聞いた。
「トトサマ〜。ナンケのクギョーはどうしていなくなっちゃったの〜?」
 緒嗣が答えた。
「悪いことをした者は、必ず罰せられるんだよ」
 これには上機嫌だった仲成の笑顔が止まった。
 いつか緒嗣が言っていたことを思い出したからである。
『策というものは、弄した者のところに必ず返ってくるものですよ』
(返ってくるものか!)
 仲成は杯をあおり、信じようとはしなかった。

(「内乱味」へつづく)

[2008年6月末日執筆]
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