1.小田原攻め参陣 | ||||||||||||||
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花房職之 PROFILE | |
【生没年】 | 1549-1616 |
【別 名】 | 助兵衛・職秀・道恵 |
【出 身】 | 岡山県? |
【本 拠】 | 美作荒神山城(岡山県津山市) →備中高松(岡山県岡山市) |
【職 業】 | 武将 |
【 父 】 | 花房職勝(重兵衛) |
【兄 弟】 | 職澄・勝元 |
【 子 】 | 職則・職直 |
【主 君】 | 宇喜多直家・宇喜多秀家 ・佐竹義宣・徳川家康 |
【仇 敵】 | 毛利元清・後藤勝基 ・豊臣秀吉ら |
後に豊臣政権五大老に列する備前中納言・宇喜多秀家の家臣に、花房職秀(もとひで)なる猛将がいた。
通称・助兵衛(すけのひょうえ・すけべえ)、後名は職之。
中国三謀将の一人・先代宇喜多直家(なおいえ。秀家の父)以来の古参家臣で、備中撫川芝揚(なつかわこうげ。岡山県岡山市)城攻めなど多くの戦いで活躍、天正七年(1579)には東美作の豪将・後藤勝基(ごとうかつもと)を美作三星(みつぼし。岡山県美作市)城に滅ぼし、美作荒神山(こうじんやま。岡山県津山市)城主として美作一国の支配を任されていた。
中国三謀将 |
毛利元就(もうりもとなり) 尼子経久(あまこ・あまごつねひさ) 宇喜多直家(うきたなおいえ) |
天正十八年(1590)三月、関白太政大臣・豊臣秀吉が全国統一の総仕上げとして小田原攻めを開始すると、主君秀家もこれに参陣、職秀も従った。
職秀の一族に花房正幸(まさゆき。越後守)なる武将がいた。
職秀の従兄弟おじ(祖父の兄弟の子。「花房氏系図」参照)で、当年四十二歳の職秀より二十五歳年上であった。備中虫明(岡山県瀬戸内市)城主で、弓の名手であり、近世歌学の祖・細川幽斎(ほそかわゆうさい。藤孝。丹後宮津城主)から古今伝授を受けた歌人でもあった。
「こんな機会はない。師にあいさつに行かねば」
幽斎もまた小田原攻めに参陣していた。彼は秀吉にとっても歌学の師なのである。
「職秀も参れ。すでに北条方の支城は次々と陥落し、全国各地の有名大名が小田原に参集している。徳川家康(遠江浜松城主)・前田利家(加賀金沢城主)・上杉景勝(越後春日山城主)など大大名の姿も拝めるかも知れんぞ」
「関白殿下もか?」
正幸は吹き出した。
「ハハハ!関白様は本陣でも奥の奥におわしますからな。よほど運がよくなければ拝めまいて」
「わしも参ろう」
言ったのは職秀ではなく、これも家臣仲間の楢村玄正(ならむらはるまさ。監物)。
「わしも久方ぶりに父にあいさつに行かねば」
玄正の父は、かの楠木正成の子孫とされる楠木正虎(まさとら。大饗正虎)だといわれている。正虎は当代一流の書家で、秀吉の右筆(ゆうひつ。秘書)を務めていた。
「ではオレも」
「拙者も」
「それがしも」
結局、宇喜多詮家(あきいえ。左京亮。備前富山城主)・戸川達安(とがわみちやす・たつやす。肥後守。備中常山城主)・長船綱直(おさふねつななお。紀伊守。備前虎倉城主)も賛同し、家臣一同で馬を並べて出向くことになった。