2.用ナシ秀秋 〜 小早川家の養子 | ||||||||||||||
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文禄二年(1593)八月、豊臣秀吉の第二子・豊臣秀頼が誕生した。
生母は先の豊臣鶴松と同じ、淀殿(よどどの。淀君・茶々)である。
「なんじゃと!」
秀吉の喜びようといったら、半端なものではなかった。
「本当じゃ! 本物の赤子じゃ! まさしく我が子じゃ! 今度は死なせんぞ。この子はワシのすべてを受け継ぐのじゃ!」
「ワシのすべて……? オレたちって、お払い箱?」
後継ぎ秀頼の誕生および成長によって、養子たちに用はなくなった。
「養子に来た連中は、元に戻すか他家へ養子に出せばよい」
秀家は実父の家・宇喜多家(うきたけ)へ戻され、秀康は関東の名家・結城家(ゆうきけ)に養子にやられ、智仁親王には八条宮家(はちじょうのみやけ)という新たな宮家を興させた。
秀次は関白だったため豊臣家に残されたが、二年後に謀反をたくらんだとして切腹させられてしまうのである。
秀秋の当初の養子内定先は、中国地方をまるごと治める大大名・毛利家(もうりけ)であった。
これには秀吉の知恵袋・黒田如水(くろだじょすい。黒田官兵衛・黒田孝高)の策謀があったという。
「毛利家当主・輝元には実子がいない(長男・毛利秀就は1595年の誕生)。ここにアホの秀秋を養子として送り込めば、大国毛利も自在に操縦できるというものじゃ」
が、毛利家の重鎮・小早川隆景が策謀に感づいた。
隆景は秀秋と違ってアホではなかった。西国の梟雄(きょうゆう)・毛利元就の三本の矢の一角を成した知将であった。
「その手に乗るものか」
隆景は先手を打った。
「ぜひぜひ、秀秋様を我が小早川家の養子に」
秀吉に直訴し、先んじて小早川家にもらい受けたのである。
こうして毛利家は救われた代わりに、小早川家が犠牲になった。
「養子に来た秀秋でーす。以後よろしくー。アハッ! ウヘヘッ!」
しりをかきながら、ハナクソを飛ばしながら自己紹介する秀秋に、小早川家の人々はうなだれた。
「聞きしに勝るアホよの」
「小早川にお笑いはいらぬわ」
「ああ、当家も滅亡じゃ」
文禄三年(1594)、秀秋は輝元の娘と結婚した。
正確には、養女と結婚した。
「アホに一族の娘はやれぬ」
輝元が死ぬほど嫌がったのであろう。
そこで、家来の宍戸元秀(ししどもとひで)の娘を無理やり養女に仕立て上げて、くれてやったのである。
文禄四(1595)年、隆景は備後三原(みはら。広島県三原市)に隠居、二年後に六十五歳で没した。
秀秋はその遺領を継承、筑前名島(なじま。福岡市東区)城主となり、筑前及び筑後の一部三十五万石(五十万石とも)を治める太守となった。
隆景は生前、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家とともに豊臣政権の五大老に列していたが、さすがにアホを列するわけにはいかず、陸奥会津(あいづ。福島県会津若松市)百二十万石の大守・上杉景勝が五大老に加えられた。