3.ピンチ秀秋 〜 慶長の役

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東京遷都の功労者・小早川秀秋
1.エッチ秀秋 〜 超お坊ちゃま
2.用ナシ秀秋 〜 小早川家の養子
3.ピンチ秀秋 〜 慶長の役
4.どっち秀秋 〜 関ヶ原の戦
5.あああ秀秋 〜 殿様ご乱心

 慶長の役豊臣秀吉の二度目の朝鮮出兵である。
 詳細は、「日朝味」にあるので省くが、小早川秀秋はこの戦いで日本軍の総大将
(お飾りだが)として渡海、蔚山(ウルサン。韓国慶尚南道)の戦では、黒田如水の全面指揮で蔚山城に籠城(ろうじょう)していた加藤清正らを救援、戦意喪失して撤退する敵を追い散らし、自ら刀を振り回して十数人を斬殺(ざんさつ)した。

 この報告が、秀吉の住む伏見城に届けられた。
「ほう、あのアホがのう」
 秀吉は感心したが、五奉行の一人・石田三成が、
「降参してきた敵や、無力な女子供を切って喜んでいたのかもしれません。そうであれば、まるで亡き秀次殿のようななされようですね」
 と、決め付けて嘆くのを聞いて、顔を曇らせた。
 豊臣秀頼誕生によって家督の望みを立たれた秀次は、晩年自暴自棄に陥り、無益な殺生を繰り返したことで「殺生関白」と呼ばれていたのである。

 三成は続けた。
「いずれにしても総大将が敵陣深く切り込むのは無謀です。勝ち戦でも大将が討たれれば、形勢たちまち逆転、大敗を喫することにもなりかねません。秀秋殿の行為は、罰せられることはあっても、褒められるものではないでしょう」
 三成はこうも付け足した。
「秀秋殿を褒めてはいけません。秀秋殿を大きくしてはいけません。秀秋殿を増長させれば、将来必ず秀頼様を脅かす存在となりましょう。秀頼様の対抗馬として、これを担ごうとする不埒
(ふらち)なやからが現れることでしょう。秀頼様をお思いであれば、秀秋殿は小さくしておくべきです。アホはアホのままにしておくべきです。秀次殿の前例もあるではありませんか」
 秀吉は考え直した。
「そうじゃな。秀頼のために、秀秋にはもっと小さくなってもらおう」

 しばらくして、秀秋に転封命令が下された。
 筑前名島三十五万石から越前北庄
(きたのしょう。福井県福井市)十五万石への国替えである。
 秀秋は耳を疑った。
「何かの間違いだよっ! オレは活躍したんだい!」
 告げ口したのが三成だと分かると、
三成を呼べぇ!」
 と、彼に食って掛かろうとしたが、徳川家康から、
「まあまあ、金吾殿。太閤殿下に歯向かうと、あなたも秀次殿のように殺されますよ」
 と、なだめられ、
「死ぬのは嫌だ」
 と、収まった。
 家康は続けた。
「ここは素直に『はい』と言っておきなさい。そして、引越しになるだけ時間を稼ぎなさい。そうしているうちに、わしがなんとかしましょう」
 秀秋はその通りにした。

 それから四か月後の慶長三年(1598)八月、秀吉は六十二歳で死んだ。
 翌慶長四年(1599)二月、五大老の会議で秀秋の罪は不問に付され、筑前筑後の旧領を返された。
 会議には当然、家康も加わっている。秀秋との約束どおり、何とかしてやったのである。
「亡き太閤殿下の遺命じゃ」
 家康は言ったが、秀秋は首を横に振って喜んだ。
「違う、家康殿のおかげだよー。アハハッ!」
 うれしそうにはしゃぐ秀秋と満足そうな家康見て、三成は舌打ちした。
(不埒なやからがとうとう本性を表したか)

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