3.ピンチ秀秋 〜 慶長の役 | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2003>3.ピンチ秀秋〜慶長の役
|
慶長の役は豊臣秀吉の二度目の朝鮮出兵である。
詳細は、「日朝味」にあるので省くが、小早川秀秋はこの戦いで日本軍の総大将(お飾りだが)として渡海、蔚山(ウルサン。韓国慶尚南道)の戦では、黒田如水の全面指揮で蔚山城に籠城(ろうじょう)していた加藤清正らを救援、戦意喪失して撤退する敵を追い散らし、自ら刀を振り回して十数人を斬殺(ざんさつ)した。
この報告が、秀吉の住む伏見城に届けられた。
「ほう、あのアホがのう」
秀吉は感心したが、五奉行の一人・石田三成が、
「降参してきた敵や、無力な女子供を切って喜んでいたのかもしれません。そうであれば、まるで亡き秀次殿のようななされようですね」
と、決め付けて嘆くのを聞いて、顔を曇らせた。
豊臣秀頼誕生によって家督の望みを立たれた秀次は、晩年自暴自棄に陥り、無益な殺生を繰り返したことで「殺生関白」と呼ばれていたのである。
三成は続けた。
「いずれにしても総大将が敵陣深く切り込むのは無謀です。勝ち戦でも大将が討たれれば、形勢たちまち逆転、大敗を喫することにもなりかねません。秀秋殿の行為は、罰せられることはあっても、褒められるものではないでしょう」
三成はこうも付け足した。
「秀秋殿を褒めてはいけません。秀秋殿を大きくしてはいけません。秀秋殿を増長させれば、将来必ず秀頼様を脅かす存在となりましょう。秀頼様の対抗馬として、これを担ごうとする不埒(ふらち)なやからが現れることでしょう。秀頼様をお思いであれば、秀秋殿は小さくしておくべきです。アホはアホのままにしておくべきです。秀次殿の前例もあるではありませんか」
秀吉は考え直した。
「そうじゃな。秀頼のために、秀秋にはもっと小さくなってもらおう」
しばらくして、秀秋に転封命令が下された。
筑前名島三十五万石から越前北庄(きたのしょう。福井県福井市)十五万石への国替えである。
秀秋は耳を疑った。
「何かの間違いだよっ! オレは活躍したんだい!」
告げ口したのが三成だと分かると、
「三成を呼べぇ!」
と、彼に食って掛かろうとしたが、徳川家康から、
「まあまあ、金吾殿。太閤殿下に歯向かうと、あなたも秀次殿のように殺されますよ」
と、なだめられ、
「死ぬのは嫌だ」
と、収まった。
家康は続けた。
「ここは素直に『はい』と言っておきなさい。そして、引越しになるだけ時間を稼ぎなさい。そうしているうちに、わしがなんとかしましょう」
秀秋はその通りにした。
それから四か月後の慶長三年(1598)八月、秀吉は六十二歳で死んだ。
翌慶長四年(1599)二月、五大老の会議で秀秋の罪は不問に付され、筑前・筑後の旧領を返された。
会議には当然、家康も加わっている。秀秋との約束どおり、何とかしてやったのである。
「亡き太閤殿下の遺命じゃ」
家康は言ったが、秀秋は首を横に振って喜んだ。
「違う、家康殿のおかげだよー。アハハッ!」
うれしそうにはしゃぐ秀秋と満足そうな家康見て、三成は舌打ちした。
(不埒なやからがとうとう本性を表したか)