4.どっち秀秋 〜 関ヶ原の戦

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東京遷都の功労者・小早川秀秋
1.エッチ秀秋 〜 超お坊ちゃま
2.用ナシ秀秋 〜 小早川家の養子
3.ピンチ秀秋 〜 慶長の役
4.どっち秀秋 〜 関ヶ原の戦
5.あああ秀秋 〜 殿様ご乱心

 慶長四年(1599)閏三月、五大老の長老・前田利家が六十二歳で没すると、もはや徳川家康の天下盗りを阻む者は誰もいなくなってしまった。
 いや、石田三成が、
「天下人は豊臣秀頼様じゃ」
 と、口答えしたが、
 加藤清正・福島正則
(ふくしままさのり)ら豊臣家武闘派の七将に、
「幼子をお飾りにして実権を握ろうとする不届きものめが!」
 と、襲撃されてびっくり、思わず憎き家康の下に逃れた。

 家康は親切ぶって勧めた。
清正らはものすごく怒っている。このまま貴殿を帰せば、彼らは何度でも襲ってくるじゃろう。ここはひとまず、彼らの憤りが収まるまで故郷で静養されては?」
 つまり、奉行を辞めよというわけである。
 三成は我慢ならなかったが、そうするよりほかなく、奉行を辞めて居城近江佐和山城
(さわやまじょう。滋賀県彦根市)へ帰っていった。

 三成の失脚により、政治は家康の独壇場となった。
 家康伏見城に居を移すと、伊達政宗・福島正則ら有力大名と勝手に縁談を進め、便宜を図った堀尾吉晴
(ほりおよしはる)・細川忠興(ただおき。細川幽斎の子)ら中堅大名の知行を勝手に加増した。
 諸大名たちもこぞって家康にこび、もみ手をしてブツを抱えて集まってくる。
 すっかり人気のなくなった大坂城にいた上杉景勝・前田利長
(としなが。利家の子)宇喜多秀家毛利輝元といった他の大老たちは、
「アホくさくて、やっておられぬ」
 と、七月に相次いで領国へ帰国。
 すると家康は、
「待ってました!」
 と、大坂城へ入城、西ノ丸に本丸と同じような天守閣を築いて居座ってしまった。
「これでは秀頼様と家康様、どっちが天下人か分からぬ」
「分かっているではないか。家康様よ」
「乗り遅れるなよ」

 翌慶長五年(1600)一月、家康上杉景勝に上洛を命じた。
 しかし景勝は、
「まだ天下人でもない家康に、そんな命令を下す資格はない」
 と、拒否、領内の城の修復まで命じた。
「愚か者め。やる気じゃな」
 家康は解釈、五月、諸大名に会津征伐を命令し、翌月から一か月も掛けて江戸城に到着、七月終わりに下野小山
(おやま。栃木県小山市)に達した。
 家康は予測していた。
「わしが上方を離れれば、三成は好機到来と喜び、必ず挙兵する」
 わざと三成にスキを与えて踊らせようとしたのである。

関ヶ原の戦 東軍陣容
本 隊 (関ヶ原方面)
武 将 本拠(石高) 参戦兵力
徳川家康 武蔵江戸(251.0) 約30000人
本多忠勝 上総大多喜(10.0) 500人
井伊直政 上野高崎(12.0) 3600人
松平忠吉 武蔵忍(10.0) 3000人
福島正則 尾張清洲(20.0) 6000人
黒田長政 豊前中津(18.0) 5400人
細川忠興 丹後宮津(18.0) 5100人
京極高知 信濃飯田(10.0) 3000人
加藤嘉明 伊予松前(10.0) 3000人
田中吉政 三河岡崎(10.0) 3000人
筒井貞次 伊賀上野(20.0) 2850人
藤堂高虎 伊予板島(8.0) 2490人
寺沢広高 肥前唐津(6.2) 2400人
生駒一正 {讃岐高松} 1830人
金森長近 飛騨高山(3.9) 1140人
古田重勝 伊勢松坂(3.5) 1020人
織田有楽 摂津味舌(0.2) 450人
有馬則頼 摂津三田(1.0) 300人
分部光嘉 伊勢上野(1.0) 300人
合 計   約75000人
後背隊(南宮山方面)
池田輝政 三河吉田(15.2) 4560人
浅野幸長 甲斐府中(16.0) 6510人
山内一豊 遠江掛川(5.0) 2058人
有馬豊氏 遠江横須賀(3.0) 900人
合 計   約14000人
※ 兵数については異説が多くあります。

 案の定、三成家康の東下を見計らって七月に挙兵、政僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の仲介で毛利輝元を総大将に担ぎ出し、大坂城へ迎え入れた。
「毛利が三成についただと」
「これは天下分け目の争乱になるぞ」
「東軍
(家康)につくか、西軍(三成)につくか」

 小早川秀秋の心は決まっていた。
「オレは東軍につく。家康殿は大恩人だ」
 ところが、秀秋は大坂にいたため、それが通じなかった。
 おねからは、
家康殿は豊臣家にもあなたにも悪いようにはしません。東軍につきなさい」
 と、言われているが、淀殿からは、
「あんたって、太閤の元養子だから、当然西軍よねー」
 と、決め付けたように言われるので、気の弱い秀秋は、
「う、うん、その……」
 と、どっちつかずの変事をしたまま、いつの間にか西軍に参加してしまっていた。
(あー! こんなことしていたら、家康殿にしかられるよ!)
 そこで、東軍の捨て石として伏見城を守っていた鳥居元忠
(とりいもとただ)に、
「中に入れてよー」
 と、頼んでみたが、
「アホと一緒に死にたくはない」
 と、むげに断られたため、やむなく宇喜多秀家・島津義弘
(しまづよしひろ)らと伏見城を包囲、これを攻略してしまった。
 しかも、三成秀頼の名で、
「小早川殿には、戦後百万石を与える」
 と、饅頭
(まんじゅう)を差し出してきたため秀秋は考えた。
「三十五万石から百万石か。つまり、えーと、うーんと、三倍増ってわけだ。ウヒヒッ! これまでより雇える家来も囲える女も三倍になるってことだ。ひゃひゃひゃ!」

 その一方で秀秋は、黒田長政(ながまさ。如水の子)を通じ、家康にも裏切りを約束する使者を遣わしている。いわゆるフタマタだ。

 八月、三成の挙兵を聞いた家康は、江戸城に戻って西上を開始した。
「拙者の城をお使いください」
「私の城も」
「私のも」
 遠江掛川城
(かけがわじょう。静岡県掛川市)主・山内一豊(やまうちかずとよ・やまのうちかずとよ)遠江浜松城(はままつじょう。静岡県浜松市)主・堀尾忠氏(ただうじ。吉晴の子)三河吉田城(よしだじょう。愛知県豊橋市)主・池田輝政(いけだてるまさ)三河岡崎城(おかざきじょう。愛知県岡崎市)主・田中吉次(たなかよしつぐ)尾張清洲城(きよすじょう。清須城。愛知県清須市)主・福島正則ら、生前秀吉家康を意識し、多重の防波堤のように東海道に配置しておいた豊臣恩顧の諸大名が進んで家康に城を明け渡したため、スムーズに西上できたのである。

 一方、伏見城を落とした西軍は、全軍を三つに分けて東下、三成美濃へ侵攻し、八月十日に美濃大垣城(おおがきじょう。岐阜県大垣市。「権力味」参照)城に入城、大谷吉継(おおたによしつぐ)らは北国口を進み、伊勢へ侵攻した毛利秀元(ひでもと)らは富田信高(とみたのぶたか)こもる伊勢安濃津城(あのつじょう。津城。三重県津市)城を、鍋島勝茂(なべしまかつしげ)らは古田重勝(ふるたしげかつ)こもる伊勢松坂城(まつさかじょう。三重県松阪市)を陥落させた。

 東軍は、福島正則・池田輝政ら先発隊が美濃へ進入、杉浦重勝すぎうらしげかつ)こもる美濃竹ヶ鼻城(たけがはなじょう。岐阜県羽島市)城と織田秀信(ひでのぶ。信長の孫)こもる美濃岐阜城(ぎふじょう。岐阜県岐阜市)城を奪取、黒田長政・藤堂高虎(とうどうたかとら)らは大垣城へ向かい、美濃合渡(ごうど。河渡。岐阜市)川で迎え撃った三成配下・前野忠康(まえのただやす。舞野兵庫)らを撃破した。
 勢いに乗った東軍先発隊は、八月二十四日に美濃赤坂
(あかさか。大垣市)に着陣、大垣城の西軍と対陣しながら家康を待った。

 九月に入ると、西軍諸将が続々と大垣城周辺に集結、宇喜多秀家は大垣城へ入り、大谷吉継・脇坂安治(わきさかやすはる)らは美濃関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)に布陣、毛利秀元・吉川広家(きっかわひろいえ)・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)長束正家・長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか。元親の子)らは南宮山(なんぐうさん。岐阜県垂井町)に陣を構えた。

関ヶ原の戦 西軍陣容
本 隊 (関ヶ原方面)
武 将 本拠(石高) 参戦兵力
石田三成 近江佐和山(19.4) 5820人
宇喜多秀家 備前岡山(57.0) 17220人
小西行長 肥後宇土(14.6) 6000人
島津義弘 薩摩鹿児島(55.9) 800人
島津豊久 日向佐土原(2.8) 858人
大谷吉継 越前敦賀(5.7) 1500人
平塚為広 美濃垂井(1.2) 350人
戸田重政 越前安居(2.0) 300人
木下頼継 越前某所(2.5) 750人
脇坂安治 淡路洲本(3.0) 990人
朽木元網 近江朽木(2.0) 600人
小川祐忠 伊予府中(7.0) 2100人
赤座直保 越前今庄(2.0) 600人
伊藤盛正 美濃大垣(3.4) 900人
岸田忠氏 大和岸田(1.0) 300人
織田信高 近江菩提寺(0.2) ?人
川尻直次 美濃苗木(1.0) 300人
糟屋宗孝 播磨加古川(1.3) 360人
豊臣配下   1000人
小早川秀秋 筑前名島(35.0) 15675人
合 計   約56000人
別働隊(南宮山)
毛利秀元 長門山口(20.0) 15000人
吉川広家 出雲富田(14.2) 3000人
安国寺恵瓊 伊予和気(6.0) 1800人
長束正家 近江水口(12.0) 1500人
長宗我部盛親 土佐浦戸(22.2) 6660人
合 計   約28000人

※ 赤字は裏切、青字は不戦。 
※ 兵数については異説が多くあります。

 九月十四日、家康がついに赤坂に到着した。
「来たか家康
 三成の家臣・島清興
(しまきよおき。左近)は、東軍の士気高揚をくじくために杭瀬川(くいせがわ。大垣市)に出陣、中村一栄(かずひで。一氏の弟)・有馬豊氏(ありまとようじ)らを挑発し、一栄の将・野一色助義(のいしきすけよし)らを討ち取った。

 同日、戦いを避けるように近江国内をちんたらちんたら行軍していた秀秋も美濃へ入り、関ヶ原の南西端・松尾山(まつおやま)に陣を取った。
 そこへ待ち構えていたかのように、三成から書状が届く。
 書状には、こうあった。
秀頼公が成人されるまで、秀秋卿が関白を務めてください」
関白!」
 バラ色の響きである。秀秋はもう、ウヘヘ状態であった。

 同じ日、家康からも書状が届いた。
「西軍を裏切れば、今までのことはすべて水に流し、上方で二か国を与える」
 三成の条件ほどでもないが、こちらも悪くなかった。
 秀秋は考えた。ずるくなっていた。確実に勝者につくには、待つことだと。
「よし。どっちにつくかは、大垣城でのドンパチが終わってからにしよーっと」

 ところが翌十五日未明、秀秋のもくろみは狂ってしまった。
 はるか遠く大垣城で戦っているはずの両軍が、いつのまにか真下の関ヶ原で対陣していたのである。
「およっ! なんじゃこれは!」
 そこへ三成が自らやって来て、その理由と戦略を述べた。アホの秀秋だけでは頼りないので、老臣・平岡頼勝
(ひらおかよりかつ)が同席する。
「東軍が西上を再開しました。大垣城を素通りして佐和山城や大坂城を直接突くようです。そのため我らは城から出て、関ヶ原の西壁に陣を布きました。これで我が西軍本隊と貴軍、そして南宮山の毛利軍とで、三方から東軍を取り囲んだ陣形になったわけです。夜が明ければ開戦です」
 三成は眼下を見下ろした。雨上がりの未明、霧も濃いため、景色はほとんど分からない。
 三成は笑った。
「明るくなれば、ここからは両軍の動きが手に取るように分かることでしょう。今どちらが優勢なのかも分かることでしょう。『洞ヶ峠
(ほらがとうげ)』を決め込むことも可能なわけですね」
 見透かされた秀秋は、思わず目をそらした。
 三成はかまわず続けた。
「我が軍は全力で戦います。そして、戦い半ばでのろしを上げさせます。貴殿はそれを合図に、東軍の側面を突いてください。そうしていただければ、西軍は勝てます。貴殿がそうすることによって、小早川隊一万五千七百人が東軍になだれ込むことになって、西軍は確実に勝利を得ることができます。貴殿の采配
(さいはい)次第で、天下分け目の大決戦の勝敗が決するのですよ! 天下の行方は貴殿の掌中(しょうちゅう)に握られているんですよ!」
 顔を上げた秀秋に、三成はなお続けた。
「貴殿は内府
(家康)に恩義を感じているかもしれません。しかし、もともと名もなき百姓の子であった貴殿を、ここまでの大大名にしたのは、他ならない亡き太閤殿下のおかげなんですよ! そのことをくれぐれもお忘れなく」

 三成は帰っていった。
 頼勝が忠告した。
「奸臣
(かんしん)の甘言に惑わされてはいけません。すでに我が軍の方針は決まっています。黒田を通じて東軍に裏切る約束をしているではありませんか」
 でも、秀秋はまだ迷っていた。

 午前八時頃、霧が晴れ、眼下で合戦が始まった。
 関ヶ原西山に陣を張る西軍諸隊に、東軍諸隊が攻撃を開始したのである。
 宇喜多秀家vs,福島正則ら。
 大谷吉継vs.藤堂高虎・京極高知
(きょうごくたかとも)ら。
 小西行長vs.織田有楽
(うらく。信長の弟)・寺沢広高(てらさわひろたか)ら。
 石田三成vs.黒田長政・細川忠興・加藤嘉明
(よしあき)・田中吉政(よしまさ。吉次の父)ら。

 午前十時頃、三成は松尾山・南宮山の諸隊に出撃を促すのろしを上げた。
 秀秋が言った。
三成がのろしを上げた」
 頼勝が言った。
「関係ありません。早く裏切って眼下の西軍を攻めましょう」
 戦況は一進一退であった。
 当初、福島は押していたが、宇喜多に巻き返された。
 小西は苦戦していたが、大谷は何度となく藤堂らを撃退していた。
 三成隊は、黒田・細川・加藤・田中ら諸隊の猛攻を受けているにもかかわらず、猛将・島勝猛らが奮戦し、一歩も引かずに激闘していた。時には大砲を撃ち込んで、押し出したりもしていた。
 秀秋は結論を先送りした。
「もうちょっと様子を見よう」

 昼近くになった。
 家康は指のツメをかみかみ、いらついていた。
「秀秋め! 何をしておるのだ! 早く裏切らぬか!」
 彼は裏切りを仲介した黒田長政の元に使者を送り、
「本当に裏切りの約束をしたのか?」
 と、確かめさせ、その家臣・久保島孫兵衛
(くぼじままごべえ)なる者に、松尾山に向けて催促の鉄砲を打ち込ませた。

 だだだだぁーん!
 けたたましい銃声に、秀秋は混乱した。
「なっ、なっ、何が起こったんだよ!」
「東軍が鉄砲を放ってきました!」
 秀秋は直感した。
家康殿が怒っている!」
 家康が激怒している顔が浮かんできた。
「秀秋! 何をしとるんじゃっ!」
 鬼より怖い、養母おねの顔も浮かんできた。
「秀秋! 家康につけって言ったでしょ!」
「わぁぁー!」
 彼は錯乱した。
 そして、決断した。
「西軍に攻め込めぇー!」

 小早川隊はときの声を上げながら、眼下の大谷隊へなだれ込んだ。
「わっ! 小早川が裏切った!」
「騒ぐな! 初めから分かっていたことだ!」
 吉継はみなに鼓舞し、戸田重政
(とだしげまさ)・平塚為広(ひらつかためひろ)隊を繰り出して応戦、一度は小早川隊を撤退させたが、
「だめだ! また来た!」
「敵ばかりだ! かなわない!」
「そうだ! おれたちも、裏切ればいいんだー!」
 一緒に戦っていた脇坂安治
(わきさかやすはる)・朽木元綱(くつきもとつな)・小川祐忠(おがわすけただ)・赤座直保(あかざなおやす。元家)隊にも裏切られて大混乱になった。
 そこへ前方からも藤堂・京極が猛攻を加える。
「なんてこった! 裏切り者たちに栄光はないぞっ!」
 吉継は観念し、恨みの言葉を吐き捨てて自害した。

「大谷隊全滅!」
 続いて集中砲火を浴びた宇喜多隊は防戦むなしく崩壊、小西隊も敗走し、石田隊もジ・エンド、島津隊は派手に敵中を突破して九州へ逃げ帰り、南宮山の諸隊も敗報を知らされて、
「え! もう負けたの?」
 と、慌てて壊走した。こうして午後二時ごろには東軍の勝利が確定したのである。

 その後の秀秋は、脇坂ら裏切り仲間とともに三成の居城・佐和山城を攻略している。

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