5.あああ秀秋 〜 殿様ご乱心

ホーム>バックナンバー2003>5.あああ秀秋〜殿様ご乱心

東京遷都の功労者・小早川秀秋
1.エッチ秀秋 〜 超お坊ちゃま
2.用ナシ秀秋 〜 小早川家の養子
3.ピンチ秀秋 〜 慶長の役
4.どっち秀秋 〜 関ヶ原の戦
5.あああ秀秋 〜 殿様ご乱心

 戦後、石田三成小西行長・安国寺恵瓊らは捕らえられ、京都六条河原で処刑された。
 長束正家は逃げ帰った居城で自殺した。
 宇喜多秀家駿河久能山
(くのうざん。静岡県静岡市)に幽閉された後、八丈島(はちじょうじま。東京都八丈町)に流された。
 長宗我部盛親は取り潰され、毛利輝元は領地を四分の一に減らされた。
 上杉景勝・佐竹義宣
(さたけよしのぶ)も減封されて遠方へ飛ばされた。
 天下人後継者・豊臣秀頼は、摂津和泉河内三か国六十六万石を治める一大名に転落した。

 一方、小早川秀秋は戦いの殊勲者として備前岡山城(おかやまじょう。岡山県岡山市)城主となり、備前美作二か国五十一万石を治めた。
 しかし、人々の目は冷たかった。毛利・上杉ら元西軍の諸大名はもちろん、東軍の大名たちも、
「アイツは裏切り者だ」
 と、あざ笑っているような気がした。
「何が悪い! 誰のおかげで今のてめーらがあると思ってるんだっ!」
 秀秋は、「裏切り者」の現実から逃避するために、酒色におぼれた。そして、ハマッていった。より一層、アホになっていった。
「大谷吉継の幽霊が出るそうな」
 そんなうわさも耳にした。実際、見ちゃったりもした。
「裏切り者〜。貴様が裏切らなければ、西軍は勝てたのだ〜」
「やかましいやい! この、死にぞこない!」
 秀秋は刀を振り回した。幽霊なので、当たるはずがなかった。
 でも、手ごたえがあった。
 ばしゃ!
「いたっ!」
 当たったのは人間の頭だった。重臣の杉原重政
(紀伊。すぎはらしげまさ)であった。
 重政がこぼれた脳みそを拾いながら、うめいた。
「殿〜、いたい〜」
 重政は遺体になった。
 秀秋は腹を抱えて笑った。
「ひゃひゃひゃ!」
 秀秋は狂っていた。
 別の重臣・稲葉通政
(みちまさ)は恐怖した。
「吉継のたたりじゃ」
 そして、
「このままではわしも殺される!」
 と、恐れをなして逐電した。

 慶長七年(1602)十月、秀秋は領内を見回りに出た。
 道端に百姓が一人、ぼんやりと座っているのを見かけた。
 マヌケ面で、いかにも貧乏そうな百姓だった。
 秀秋は笑えてきた。そして、その百姓に近づくと、バカにしてやった。
「へっ! バーカ! 貧乏ー!」

 百姓は正気に返った。
 目の前にアホで有名な殿様の顔があった。前殿様・宇喜多秀家を裏切り、島流しに追いやった憎き殿様の顔があった。そんなヤツにバカ呼ばわりされたくなかった。
 百姓は怒った。
「誰のせいで貧乏になったと思っているんだ!」
「へ?」
 アホ面でたじろいだ秀秋に、百姓は激高した。
「みんな貴様のせいだ! こうしてやる! 思い知れ!」
 百姓は渾身
(こんしん)の力をこめて、その股間(こかん)を蹴(け)り上げた。
「うぇ!」
 秀秋は奇声を上げて飛び上がった。やけに高く跳ね上がり、宙に舞った。そして、落っこちて意識を失った。
 どしゃ。
 秀秋は、そのままになった。
「あ、殿!」
「殿様っ!」
 びっくりして駆け寄ってきた家来たちがどんなにゆすっても、彼は二度と動き出すことはなかった。  
 享年二十一。

 

 ※ 秀秋の死因については異説が多くあります。以下にその一例を挙げておきます。

[2003年9月末日執筆]
ゆかりの地の地図
参考文献はコチラ

※ 近年では、小早川秀秋はアホではなかった説も有力です。
※ 関ヶ原の戦での「問鉄砲」もなかった説が有力です。
※ 秀秋の死因についても、徳川方の刺客に殺されたのかもしれません。

歴史チップスホームページ

inserted by FC2 system