5.あああ秀秋 〜 殿様ご乱心 | ||||||||||||||
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戦後、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊らは捕らえられ、京都六条河原で処刑された。
長束正家は逃げ帰った居城で自殺した。
宇喜多秀家は駿河久能山(くのうざん。静岡県静岡市)に幽閉された後、八丈島(はちじょうじま。東京都八丈町)に流された。
長宗我部盛親は取り潰され、毛利輝元は領地を四分の一に減らされた。
上杉景勝・佐竹義宣(さたけよしのぶ)も減封されて遠方へ飛ばされた。
天下人後継者・豊臣秀頼は、摂津・和泉・河内三か国六十六万石を治める一大名に転落した。
一方、小早川秀秋は戦いの殊勲者として備前岡山城(おかやまじょう。岡山県岡山市)城主となり、備前・美作二か国五十一万石を治めた。
しかし、人々の目は冷たかった。毛利・上杉ら元西軍の諸大名はもちろん、東軍の大名たちも、
「アイツは裏切り者だ」
と、あざ笑っているような気がした。
「何が悪い! 誰のおかげで今のてめーらがあると思ってるんだっ!」
秀秋は、「裏切り者」の現実から逃避するために、酒色におぼれた。そして、ハマッていった。より一層、アホになっていった。
「大谷吉継の幽霊が出るそうな」
そんなうわさも耳にした。実際、見ちゃったりもした。
「裏切り者〜。貴様が裏切らなければ、西軍は勝てたのだ〜」
「やかましいやい! この、死にぞこない!」
秀秋は刀を振り回した。幽霊なので、当たるはずがなかった。
でも、手ごたえがあった。
ばしゃ!
「いたっ!」
当たったのは人間の頭だった。重臣の杉原重政(紀伊。すぎはらしげまさ)であった。
重政がこぼれた脳みそを拾いながら、うめいた。
「殿〜、いたい〜」
重政は遺体になった。
秀秋は腹を抱えて笑った。
「ひゃひゃひゃ!」
秀秋は狂っていた。
別の重臣・稲葉通政(みちまさ)は恐怖した。
「吉継のたたりじゃ」
そして、
「このままではわしも殺される!」
と、恐れをなして逐電した。
慶長七年(1602)十月、秀秋は領内を見回りに出た。
道端に百姓が一人、ぼんやりと座っているのを見かけた。
マヌケ面で、いかにも貧乏そうな百姓だった。
秀秋は笑えてきた。そして、その百姓に近づくと、バカにしてやった。
「へっ! バーカ! 貧乏ー!」
百姓は正気に返った。
目の前にアホで有名な殿様の顔があった。前殿様・宇喜多秀家を裏切り、島流しに追いやった憎き殿様の顔があった。そんなヤツにバカ呼ばわりされたくなかった。
百姓は怒った。
「誰のせいで貧乏になったと思っているんだ!」
「へ?」
アホ面でたじろいだ秀秋に、百姓は激高した。
「みんな貴様のせいだ! こうしてやる! 思い知れ!」
百姓は渾身(こんしん)の力をこめて、その股間(こかん)を蹴(け)り上げた。
「うぇ!」
秀秋は奇声を上げて飛び上がった。やけに高く跳ね上がり、宙に舞った。そして、落っこちて意識を失った。
どしゃ。
秀秋は、そのままになった。
「あ、殿!」
「殿様っ!」
びっくりして駆け寄ってきた家来たちがどんなにゆすっても、彼は二度と動き出すことはなかった。
享年二十一。
※ 秀秋の死因については異説が多くあります。以下にその一例を挙げておきます。
[2003年9月末日執筆]
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参考文献はコチラ
※ 近年では、小早川秀秋はアホではなかった説も有力です。
※ 関ヶ原の戦での「問鉄砲」もなかった説が有力です。
※ 秀秋の死因についても、徳川方の刺客に殺されたのかもしれません。