2.かわいい子があわれ

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リオ五輪から東京五輪へ
1.かわいい子はどーれ
2.かわいい子があわれ

 太子補佐・大鷦鷯尊は、太子・菟道稚郎子に即位を勧めた。
大王はみまかられました。次の大王は太子です」
 しかし、菟道稚郎子は立たなかった。
「僕にはあなたを含めて五人の兄がいます。僕は弟として兄たちを差し置いて大王になることはできません。それより僕は、儒教をもっと学びたいのです。王仁
(わに)について儒教を究めたいのです」
 王仁とは、応神天皇が菟道稚郎子のために百済から呼び寄せた「家庭教師」であった。
「なりません。父上は太子を後継者として指名したのです。太子は速やかに大王になるべきです」
「父の言うことが正しければ従います。間違っていれば従えません。父は後継者の選び方を間違えたのです。才能などは関係なく、ただかわいいだけで僕を選んでしまったのです。本当に大王にふさわしいのはあなたです。年齢も容姿も才能も人望も僕より上ではありませんか。大王には兄上がなるべきです。そうすれば僕は臣下として兄上に仕えましょう」
「太子の主張は矛盾しています。私にも三人の兄がいるのです。太子の理屈であれば、私も彼らを差し置いて大王になることはできません。そうではないのです。大王になるべきは、父に選ばれた太子しかいないのです。父上はただあなたをかわいいだけで選んだのではありません。あなたの伸びしろに期待していたのです」
「……」
大王になるべきは太子です。それとも太子は、父の遺志に従わないというのですか?兄の説得にも従わないというのですか?子弟というものは、父兄に従うものではなかったのですか?」
「それゆえです。僕がそれに従えば、兄たちを従わせることになってしまいます。『子、曰く。出でてはすなわち公卿に事
(つか)え、入りてはすなわち父兄に事う』。どうか、大王位には兄上が」
 大鷦鷯尊はイライラしてきた。
「分からない方ですね。この国では古来、太子が大王になってきたんです。年齢は関係なく、大王が亡くなれば、すぐに太子が次の大王として即位してきたのです。儒教は立派な教えですが、異国からの伝来ものゆえ合わないところもたくさんあります。合わない部分は我が国の習わしに合わせるのが当然ではないでしょうか? よって、大王には太子がなるべきです」
「いいえ、大王にふさわしいのは兄上です」
「太子だって言ってるじゃないか!」
「兄上です!」
「太子!」
「兄上!」

 大鷦鷯尊はいったん説得をあきらめた。
 だからといって自分が即位するわけではなかった。
 そのため、大王の空位は三年間続いた。
 その間、数々の事件が起こった。

 まず、一番目の皇子・額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)が暴れた。
「次弟の大山守は山海林野の管理――。四弟の大鷦鷯は大王の補佐――。六弟の菟道稚郎子は大王位――。なのに俺様は、オヤジから何ももらってねえ!」
 腹が立った額田大中彦皇子は、屯倉を奪ってやった。
「なっ、何するんですか!?」
屯倉大王の財産だ。しかし大王のいない今は誰のものでもない!大王の息子である俺様が奪って何が悪い!」
 額田大中彦皇子は屯倉を管理していた淤宇宿祢
(おうのすくね)と争ったが、大鷦鷯尊が仲裁して事を収めた。
 財産分配で片を付けたのであろう。

 これがまた新たなもめ事を生んだ。
 二番目の皇子・大山守皇子を怒らせたのである。
屯倉の管理は俺が任された山海林野の管理の内だ!太子め!勝手に人の財産を額田兄に分配しやがって!成敗してくれよう!」
 大山守皇子は反乱を起こし、大鷦鷯尊も誘った。
「太子が俺の屯倉を勝手に処分しやがった!即位を渋って政治空白を生み出していることも許せぬ!太子を殺して共に政治を執ろうではないか!」
 大鷦鷯尊は乗らなかった。乗ることはできなかった。
(だって、屯倉を処分しやがったのは、太子じゃなくて私だもーん)
 大鷦鷯尊は大山守皇子の陰謀を菟道稚郎子に密告した。
「大山守兄が太子の宮殿を襲撃するそうですよ」
「何ですって!」
 菟道稚郎子は自邸「菟道宮
(うじのみや。桐原日桁宮。京都府宇治市)で迎撃態勢を整えた。
 結果、大山守皇子は数百人で攻めたが敗れ、宇治川で溺死した。
 水死体は考羅済
(からのわたり。京都府京田辺市)に浮かび、奈良山(ならやま。平城山。奈良県奈良市)に葬られたという。

 この件で、菟道稚郎子はますますかたくなになった。
「僕は戦は嫌いです。あのような怖い悲しい思いはもうしたくありません。大王になったら率先して戦をしなければならなくなります。嫌だ!嫌だ!僕は大王になんてならない!僕のようなフヌケ野郎は学問をしていればいいんだ!紛争の解決策は戦争だけがすべてではありません。『子曰く!子、政を為すになんぞ殺を用いん!子、善を欲すれば、民、善ならん!君子の徳は風なり!小人の徳は草なり!草、これに風を上
(くわ)うれば、必ず伏す!』」

 政治空白にいら立っているのは大王家の人々だけではなかった。
 民も大いに困惑していた。
 ある時、漁師が鮮魚を菟道宮に届けた。
「めったに獲れない高級魚です。どうぞ、大王様に」
 しかし、菟道稚郎子は断った。
「僕は大王ではありません。大王は難波
(なにわ)にいる兄の大鷦鷯尊です」
 そこで漁師は難波高津宮
(たかつのみや。大阪市中央区)に向かった。
大王様。貢物をどうぞ」
 しかし難波でも大鷦鷯尊に断られた。
「私は大王ではない。大王は菟道稚郎子太子だ」
 漁師は再び菟道へ返した。
大王は難波だって!」
 漁師は再び難波へ返した。
大王は菟道って言ってるだろ!」
 こうして菟道と難波を何度か往復しているうちに、鮮魚はプンプン腐ってしまった。
 漁師は腐魚を捨てて号泣した。
「うわーん!こんなことなら、自分で食えばよかったぜー!」

 顛末(てんまつ)が菟道稚郎子の耳に入った。
「漁師は腐った高級魚を捨てて号泣したそうです」
 菟道稚郎子は悲しんだ。
「私のせいで民が悲しんでいます……」
 同じような似たような話がいくつも届いてきた。
「私に徳がないせいで、多くの民が悲しんでいます……」
 菟道稚郎子は涙を流した。
「迷える民を救うためには、一刻も早く兄に大王になってもらうことです。しかし私には説得するすべがありません。いったいどうすれば兄は即位してくれるのですか?」
 菟道稚郎子は考えたが思いつかなかった。
 こぶしを柱をたたきつけて血がにじんだのを見て、『論語』の一節を思い出した。
「そうだ……。あの方法がありました!『子、曰く!志士仁人は、生を求めてもって仁を害することなし!身を殺してもって、仁を成すことなり!』

 菟道稚郎子は自殺した。
 これが彼の方法であった。
 享年不明。
 知らせを聞いて駆け付けた大鷦鷯尊は嘆き悲しんだ。
「愚か者めがっ!何が儒教か!王位継承は異国のしきたりに従うべきにあらず!この国は神道の国なり!神国では、神国の前例にならうべしっ!」
 仁徳天皇元年(313?)正月三日、大鷦鷯尊は即位した。
 伝十六代大王仁徳天皇である。
 菟道稚郎子の同母妹・八田皇女は、後に仁徳天皇の大后になることになる
(「お蚕味」参照)

[2016年8月末日執筆]
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