1.京都へ行こう | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2008>1.京都へ行こう
|
後醍醐天皇はイライラしていた。
「ああ、鎌倉幕府を滅ぼしたい!」
ここへ行き着いた経緯は「2003年5月号 窮地味」や「2005年9月号 刺客味」で述べているので省略する。
「すべての元凶は鎌倉幕府だ。持明院統と争わなければならないのも、自分の子を皇太子にできないのも、帝位の期限を定められているのも、すべて鎌倉幕府のせいなのだ!何が征夷大将軍だ!東夷を討つべき将軍こそが東夷そのものではないかっ!討つべし!討つべし!東夷を討つべしっ!」
後醍醐天皇はほえたものの、ため息をついた。
「だが朕(ちん)は、後鳥羽院(「2006年4月号 栄光味」参照)のようにはなりたくはない……」
「なる必要はございません」
側近・日野資朝(ひのすけとも)が口を挟んだ。
日野家は摂関家の流れではなく、藤原北家真夏(まなつ。「2008年7月号 平城味」「日野家系図」参照)の子孫である。資朝は身分よりも学才でなりあがった男であった。
「失敗した承久の乱より、成功した治承・寿永の乱を参考にすべきかと存じます」
「ほう」
「八幡太郎源義家以降、源氏と平家は交互に盛衰してまいりました。幕府執権北条氏は平家の末裔(まつえい)。平家を倒すためには、源氏の力を借りるのが一番かと存じます。治承・寿永の乱のごとく、諸国の源氏に決起を促すべきかと存じます」
「うむ」
後醍醐天皇はうなずいたが、心配であった。
「――はたして諸国の源氏は朕に味方してくれるであろうか?」
「立ちましょう!雲は竜に従い、風は虎(とら)に従うのです!陛下の御威光御賢徳をもってすれば、諸国の源氏は波打つごとく雲霞(うんか)のごとく総立ちいたしましょう!おそれながらこの私が治承寿永の源行家(みなもとのゆきいえ)になりて、諸国の源氏を説得して回りましょう!」
「うむ。頼むぞ」
船木頼春 PROFILE | |
【生没年】 | ?-? |
【別 名】 | 左近蔵人・左将監・孫十郎 春蓮・土岐頼員? |
【出 身】 | 美濃国(岐阜県) |
【本 拠】 | 美濃国船木(岐阜県本巣市) |
【職 業】 | 武士 |
【 父 】 | 土岐(船木)頼重 |
【叔 父】 | 土岐胤国・定親・頼貞 |
【 妻 】 | 斎藤利行女 |
【 子 】 | 土岐頼夏 |
【従兄弟】 | 土岐頼直・頼清・頼遠・頼兼ら |
【主 君】 | 土岐頼貞・北条範貞 |
【盟 友】 | 日野資朝・日野俊基・多治見国長ら |
【仇 敵】 | 北条範貞ら |
こうして、日野資朝は東国へ向かった。
また、同族の蔵人(くろうど。「2005年7月号 詐欺味」参照)・日野俊基(としもと)も畿内をめぐって同志を募ったのである。
資朝にはつてがあった。
日頃から親しくしていた清和源氏源頼光(よりみつ)の末裔がいたのである。
それは、美濃随一の名門豪族土岐氏の当主・土岐頼貞(よりさだ)であった(「土岐氏系図」参照)。
後に足利尊氏に従って室町幕府創業に協力し、美濃守護に任せられ「土岐絶ゆれば足利絶ゆべし」とまで信頼された名将である。武勇だけではなく和歌にも秀で、勅撰和歌集『玉葉和歌集(ぎょくようわかしゅう。京極為兼編)』『風雅和歌集(ふうがわかしゅう。光厳上皇撰)』などに多くの歌を残している。
「おお、資朝殿か」
資朝は山伏姿をしていたが、頼貞にはすぐに誰かわかった。
資朝が笑った。
「今日は、源行家の格好で来てみました」
頼貞の顔が曇った。それが何を意味するか、気づいてしまったからである。
頼貞が先に言った。
「私は主上(後醍醐天皇)を敬っている」
「承知しております」
「同時に、私の母は先の執権(北条貞時)の娘だ。その点、よろしく理解していただきたい」
「承知しております。それゆえ現執権の傍若無人ぶりもよく御存知でしょう?」
現執権とは鎌倉幕府第十四代執権、闘犬狂として名高い最後の得宗・北条高時である。
「確かに、現執権殿はちょっと変わったお方だ」
言い換えれば、アホということである。
ため息をついた頼貞に、資朝が言った。
「あなたはいずれ、二者択一を迫られることでしょう。そして、あなたがどちらに味方するかで天下の形勢はガラリと変わるのです」
「大げさな。源氏の末裔は諸国に大勢いる。私にそれほどの影響力はない」
「大げさではございません。上野の新田(にった)氏、下野の足利氏、常陸の佐竹(さたけ)氏、甲斐の武田(たけだ)氏、信濃の木曽(きそ)氏など、あなたはこれらの誰よりも京都、つまり帝の近くにおられます。天があなたを放っておくことはないでしょう」
頼貞は野心がないわけではなかった。
「六波羅探題が人手を出せと言ってきている。篝屋(かがりや)にだ」
「ほう」
篝屋とは、鎌倉幕府が京都の治安を守るために設けた番所である。交差点に設けられた交番のようなもので、京内に四十八か所あり、六波羅探題の支配下にあった。その長を篝屋守護人(しゅごにん)という。
「それらに私の息子を含め、一族の信頼のおける猛者たちを送り込むつもりだ。都では幕府よりも主上の役に立つことのほうが多いことであろう」
「承知いたしました。帝もお喜びかと」
元亨三年(1323)、土岐一族の者たち、すなわち土岐頼兼(よりかね。頼貞の子)・多治見国長(たじみくになが。「多治見氏系図」参照)・船木頼春(ふなきよりはる。または土岐頼員)らが篝屋の任に当たるために上洛することになった。
船木頼春は頼貞の甥(おい)で(「船木氏系図」参照)、船木山(ふなきやま。船来山・桑山。岐阜県本巣市)近辺に住んでいた武士である。
「京都は懐かしいだろう?」
頼春は一緒に上洛する妻に笑いかけた。
妻は京都生まれで、その父は六波羅の奉行人・斎藤利行(さいとうとしゆき。俊行・俊幸)である。
が、妻はあまりうれしくなそうであった。
「なんだ?うれしくないのか」
「うん」
「どーして?」
「京都は誘惑が多いから」
結婚二年目の妻は心配なのであった。
頼春は笑い飛ばした。
「ハハッ!おれが浮気するとでも思っているのか?バカバカしい!どこへ行こうとどんな美女が攻撃してこようと、おれはおまえ一筋だよっ!」