4.蝦夷の始末

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北方領土はアフリカ人のものである
1.江差の密談
2.酋長の変死 
3.国後の蜂起 
4.蝦夷の始末

 七月十六日以前、マメキリ・ホニシアイヌ・セワハヤフ・ホロメキ以下百三十名のアイヌは征討軍に投降した。
 取り調べを行ったのは、ツキノエ・ションコ・イトコイらである。
 彼らの調べにより先述の四名など首謀者八名及び和人を殺害した二十九名、計三十七名を仮牢に押し込めた。
「御苦労であった」
 新井田正寿はツキノエらを帰らせると、松井広次に伝えた。
「ということで明日、仮牢の三十七名の死刑を決行する」
 松井は驚いた。
「三十七名は永牢ではなかったんですか?」
「なかったのだ」
「……。では、このことをツキノエらに報告いたします」
「ややこしくするな。ツキノエらには執行後に伝えればいい」
「ですか……」

 翌二十一日、三十七名の罪人は一人ずつ呼ばれた。
「罪状の記録をとるから一人ずつ離れに来るように」
 まず、マメキリが呼ばれた。
 離れには記録をとる者はおらず、刀を持った死刑執行人がいた。
「これはどういうことだ?」
 死刑執行人は刀を振り上げた。
「どうもこうもない。おぬしら三十七名は全員死刑に決まったのだ」
「話が違う!」
「やかましい!」
 ずびゃ!
 どしゃ!
 コンコロコンコロ……。

 こうして三十七名は一人ずつ処刑されていった。
 ずびゃ!
 どしゃ!
 コンコロコンコロ……。
 ずびゃ!
 どしゃ!
 コンコロコンコロ……。
 ずびゃ!
 どしゃ!
 コンコロコンコロ……。
 ずびゃ!
 どしゃ!
 コンコロコンコロ……。

 五人目が殺された頃、仮牢のアイヌたちは変に思い始めた。
「なんか今、変な音がしなかったか?」
「コンコロコンコロって、何かが落ちて転がるような……」
「なんだそりゃ」
「それに、どうして先に出て行った者は一人も帰ってこないんだ?」
「おかしいな」
 セワハヤフも変に思った。 
 番人は笑った。
「なんででしょうね。ふひっ」
 セワハヤフは不安になった。番人に迫った。
「ま、まさか……」
 番人は隠さなかった。
「残念だが、そういうことだ。南無阿弥陀仏……」
「クッソー!」
「謀りやがったなー!」
シャモはまたしてもおらたちを裏切ったのかーっ!」
 セワハヤフたちは暴れた。仮牢の壁を蹴
(け)りまくった。体当たりして何とか破ろうとした。

「愚かな」
 報告を受けた新井田は、ただちに仮牢を包囲させた。
 仮牢はドカンバタンと音を立てて変形し、今にも破られそうであった。
 新井田は命じた。
「面倒だ。まとめて片付けろ」
 大砲が轟音
(ごうおん)を上げて火を噴いた。
 どおおーん!
 ガラガラ、グワシャーン!
 仮牢の壁が崩れて穴が開くと、セワハヤフたちが脱出した。
「みんな逃げろー!」
「裏切り者なんかに殺されてたまるかー!」

 が、彼らは逃げ失せることはできなかった。
 だだだだだだだーん!
 続いて連射された鉄砲によって地獄絵図が展開されたのである。

 ツキノエたちは音に驚いた。
「何が起こったんだ?」
「ああ! 仮牢が大変なことになっているぞ!」
シャモが仮牢を銃撃しているぞ!」

 ツキノエは仮牢に向かった。
 そこでわが子が血まみれで仁王立っている姿を見た。
「セワハヤフ!」
 セワハヤフは父に気付いた。彼は血泡を吹きながら、心の底からわめいた。
「オヤジよ……、おまえもかーーーっ!」

「違ーーーう!」
 セワハヤフは崩れ落ちた。
「セワハヤフー!」
 ツキノエは息子に駆け寄った。
 抱き上げたが、すでに息はなかった。
「チ、チッチッ、チックショーーーッ!」
 ツキノエは歯ぎしりして新井田をにらみつけた。
「な、何だね。貴様も反抗する気かね?」
 新井田は身構えた。
 同時にバラバラといくつかの刀身がツキノエに突きつけられた。
 ションコが必死で叫んだ。
「これ以上、血を流すなーーーっ!」 
 ツキノエは泣きわめいた。息子に覆いかぶさると、天に向かって遠吠えした。
「うわぉわおおぉぉぉぉーーーん!」

 八月五日、新井田らはツキノエ・ションコ・イトコイら帰順アイヌ四十数名とマメキリ・ホニシアイヌ・セワハヤフ以下三十七名の塩漬け首とともに帰途につき、九月五日に松前に凱旋した。
 松前道広は上機嫌でツキノエらを歓待、弟で画家の蠣崎波響
(かきざきはきょう。松前広年)にツキノエらの姿を写させた。
 これが現在まで伝えられている波響の代表作「夷酋列像」である。

 一方、飛騨屋久兵衛はそれまで請け負っていた全場所を没収されて閉店に追い込まれ、すごすごと故郷である飛騨の下呂(げろ。岐阜県下呂市)へ引き上げていった。

 文化四年(1807)、時の老中首座・松平定信は東蝦夷地を幕府直轄領とし、松前藩を陸奥梁川(やながわ。福島県伊達市)九千石に移封した。事実上の減封であった。
「ロシアの南下に警戒している今、アイヌを虐げていて良いことはない」
 定信蝦夷地に密偵を放ち、その実情を把握していたのである。
 が、文政四年(1821)に松前氏は旧領に復され、明治維新を迎えることになるのである。

[2006年8月末日執筆]
参考文献はコチラ

※ この戦いについては名称・人名・肩書き・人数・月日など多くの異説がありますので、筆者の独断で選択するか曖昧(あいまい)にしておきました。

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