3.真の勝者

ホーム>バックナンバー2021>令和三年9月号(通算239号)放置味 鳥取の渇殺し3.真の勝者

アフガン&コロナ放置
1.第一次鳥取城攻め
2.第二次鳥取城攻め
3.真の勝者

 鳥取城を奪還できても、山名豊国は城主には返り咲かなかった。
「余は戦より文化に生きたい」
 羽柴秀吉のち豊臣秀吉は、豊国を御伽衆
(おとぎしゅう。貴人の話し相手)に加え、よく話をしたという。
「どうして禅高
殿はいつも楽しそうなのじゃ?」
 豊国は出家して禅高と名乗っていた。
「何事も深く考えないからではないですか?」
「わしは考えることが多くなった。天下を取ってからはなおさらじゃ」
「考えるより、考えないほうがうまくいくことは多々ありますよ」
「そうじゃのう。あの鳥取の戦いでも、深く考えなかった貴殿に従って即座に降伏していれば、誰も死なずにすんだ。色々考えて抵抗した吉川経家の決断が、結果的に半数以上の城兵を死に追いやってしまったのじゃ。にもかかわらず、世間の評判は貴殿より経家のほうが良い。貴殿は世論に不満があろう?」
「全然。余は経家に負けたとは思っていません。経家は死にましたが、この通り、余はうまく生き残りました」
「ははは! まさしく貴殿は経家よりも上手じゃな。これは愉快!」
「太閤
(たいこう)さまも深く考えずに生きたほうがいいんじゃないですか?」
「フフフ、わしの立場ではそうはいかぬ。しかしあの世では、貴殿のように気楽に生きたいものじゃの〜う」
 秀吉は慶長三年(1598)八月十八日に六十二歳で没した。
 死んだ秀吉に「豊国大明神」の神号が贈られた時は、豊国は思わず笑っちまったであろう。
「まいったな。カミサマになっちまったぜ」

 豊国は秀吉没後は徳川家康と仲良くした。
 関ヶ原の戦後、但馬七味郡(七美郡。兵庫県養父市と香美町の一部。「飛行味」参照)内に六千七百石の采地をもらって、駿府城
(すんぷじょう。静岡市葵区)にもよく遊びに行ったという。
 その家康も元和二年(1616)四月十七日に七十五歳で死んでしまった。

 豊国は江戸幕府二代将軍徳川秀忠(家康の子)とも仲良くなり、御伽衆に加えられた。
 
(堺市堺区)でもよく遊んでいたようだが、さすがに年には勝てず、寛永三年(1626)十月七日に七十九歳で死んだ。
 戦争を捨てて平和に生きた、自由で幸せな生涯であった。

[2021年8月末日執筆]
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参考文献はコチラ

※ 第二次鳥取城攻めでは餓死者も多数出ましたが、開城後に食い過ぎで死んだ者も多かったと伝えられています。
※ 鳥取城跡には平成五年(1993)に吉川経家像が建てられました。

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