99.富豪味 基礎用語集

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赤松満祐(あかまつみつすけ)
 (1373-1441) 武将。播磨・美作・備前守護。侍所所司(頭人。在職1411-1413,1428-1432)。義則の子。1427父の死後に家督を継ぎ、1428正長(しょうちょう)の土一揆(つちいっき)を平定するが、六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)にうとまれ、1441義教を自宅に招いて殺害したが、山名持豊(やまなもちとよ。宗全)らに敗死した(嘉吉の乱)。

アメリカ≧アメリカ合衆国(United States of America)=米国(べいこく)
 北アメリカ大陸にある国。1492コロンブスが漂着し、十六世紀初めにスペインが、1607年からイギリスが入植、1776イギリスから独立宣言し、1783パリ条約で独立を承認、徐々に西へ領土を広げ、十九世紀半ばに太平洋側に到達、二度の世界大戦と冷戦を経て、世界一の工業国・農業国・軍事大国に成長した。首都はワシントン。

イギリス(Inglez)=英国(えいこく)=グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国
 ヨーロッパにある国。紀元前七世紀頃にケルト人が先住民を駆逐し、五世紀頃からアングロサクソン人がイングランドを制圧、グレートブリテン島ほかを領有し、1588スペインの無敵艦隊を撃破、1600東インド会社を設立し、世界へ植民地を拡大、十八世紀にいち早く産業革命を成し、十九世紀には大英帝国として全盛期を誇った。現在の首都はロンドン。

岩崎弥太郎(いわさきやたろう)
 (1834-1885) 実業家。土佐高知郷士。1870藩営大坂商会(後の九十九商会)を譲られて海運業などを営み、三川(みかわ)商会・三菱商会を設立、1875三菱汽船会社・郵便便汽船三菱会社に改組し、台湾出兵や西南戦争などで巨利を得、三菱財閥の基礎を築いた。
富豪味

院政(いんせい)
 上皇(譲位した天皇)や法皇(出家した天皇)が実質的に国政を行う形態。1086白河(しらかわ)上皇が初めて行い、1840光格(こうかく)上皇が没するまで断続的に行われたが、1221承久(じょうきゅう)の乱以降の院政は形式的。

江戸時代(えどじだい)=徳川(とくがわ)時代
 (1600or1603-1867) 江戸幕府が支配していた時代。1600関ヶ原の戦(せきがはらのたたかい)で徳川家康(とくがわいえやす)が政権を握ったこと、または1603家康が江戸幕府を開いたことに始まり、徳川氏が代々将軍に就任した。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還して終わった。

江戸幕府(えどばくふ)=徳川(とくがわ)幕府
 (1600?-1867) 江戸時代の武家政権。1600関が原の戦で勝利した徳川家康(とくがわいえやす)が1603に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任して創始。徳川氏が代々将軍に就任、老中(ろうじゅう)が政務を統括し、臨時に大老(たいろう)が置かれた。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還(たいせいほうかん)、1868-1869戊辰(ぼしん)戦争をへて旧幕府勢力は解体した。

応仁(おうにん)の乱=応仁・文明(ぶんめい)の乱
 (1467-1478) 管領細川勝元(ほそかわかつもと)と嘉吉の乱以後台頭した山名持豊(やまなもちとよ。宗全)の対立に将軍家(足利義視vs足利義尚)・畠山氏(畠山政長vs畠山義就)・斯波氏(斯波義敏vs斯波義廉)の家督争いが絡んで起こった戦。京都を中心に十一年間繰り広げられたが、1477勝元・持豊が相次いで病没し、翌年、両軍は講和した。

大王(おおきみ)
 ヤマト政権の首長。皇族の代表。天武(てんむ)天皇の頃から天皇と呼ばれるようになった。

嘉吉の乱(かきつのらん)
 1441播磨(はりま)等守護・赤松満祐(あかまつみつすけ)が、六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)を自邸に招いて暗殺するが、山名持豊(やまなもちとよ。宗全)ら幕府軍によって討伐された事件。これにより赤松氏は衰退し、山名氏が台頭した。

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝が幕府を開いて政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉府が置かれ、東国支配の中心となった。

北畠顕家(きたばたけあきいえ)
 (1318-1338) 公卿・武将。親房(ちかふさ)の子。建武政権で陸奥守として義良親王(のりよししんのう。後の後村上天皇)を奉じて奥羽を統治し、1335足利尊氏が離反すると、鎮守府将軍として西上、これを九州に追って陸奥へ下向、尊氏の復活によって再び西上し、美濃青野ヶ原(あおのがはら。岐阜県関ヶ原町)などで勝利するが、大和般若坂(はんにゃざか。奈良県奈良市)で敗北、和泉堺浦(さかいうら。大阪府堺市)で高師直(こうのもろなお)に敗れ、和泉石津(いしづ。堺市)で討死した。

公卿(くぎょう)
 公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。古代の公卿は現在でいう閣僚に相当。

警察予備隊(けいさつよびたい)→保安隊(ほあんたい)
 1950警察予備隊令によって発足した日本防衛隊。自衛隊の前身。朝鮮戦争勃発に伴ってマッカーサーの要請で設置された。1952保安庁発足によってこれに属し、保安隊と改称された。

高句麗(こうくり)
 (前47?-668) 古代朝鮮三国の一。現在の北朝鮮および中国東部。朱蒙(しゅもう)が建国。313楽浪郡を滅ぼし、五世紀初めに広開土王(こうかいどおう。好太王)が朝鮮半島に進出してきた倭(わ)を撃退、427長寿王が平壌に都を移し、唐・百済・新羅と争ったが、668唐・新羅連合軍に滅ぼされた。

光厳上皇(こうごんじょうこう)←光厳天皇←量仁親王(かずひとしんのう)
 (1313-1364) 北朝初代天皇(在位1331-1333。院政1336-1351)。後伏見(ごふしみ)天皇の皇子。母は藤原寧子(ねいし。広義門院)。1326後醍醐(ごだいご)天皇の皇太子となり、1331元弘の乱で鎌倉幕府によって後醍醐天皇が廃されて天皇になるが、1333幕府滅亡で廃位、1336弟・光明(こうみょう)天皇が足利尊氏に擁されたため院政を行うが、1852南朝に拉致されて出家、後に丹波の常照寺に隠棲(いんせい)した。

後三条天皇(ごさんじょうてんのう)←尊仁親王(たかひとしんのう)
 (1034-1073) 伝七十一代天皇(在位1068-1072)。後朱雀(ごすざく)天皇の皇子。兄・後冷泉(ごれいぜい)天皇没後に即位して親政を行い、1069延久(えんきゅう)の荘園整理令を発し、記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ。記録所とも)を設置、摂関家勢力を排除し、学者・大江匡房(おおえのまさふさ)らを登用、1072宣旨枡(せんじます)を定めた。

後藤象二郎(ごとうしょうじろう)
 (1838-1897) 武士・政治家。参議。土佐高知藩士。藩主・山内豊信(やまうちとよしげ。容堂)を動かして徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に大政奉還(たいせいほうかん)を勧め、明治政府の参与(さんよ)・左院(さいん)議長・参議等を務めたが、征韓論争で破れて下野(明治六年の政変)、1874板垣退助(いたがきたいすけ)らと民選議院設立を建白し、1881自由党結成にも参加、1886藩閥(はんばつ)政府に反発するため大同団結運動を提唱したが、後に融和し、逓信相・農商相等を務めた。

古墳時代(こふんじだい)
 古墳が多く造られた時代のこと。前期(三世紀末〜四世紀)・中期(四世紀末〜五世紀)・後期(六〜七世紀)に分けられる。

鎖国(さこく)
 (1639-1853) 国が外国との通商や往来などを制限すること。特に江戸幕府による対外政策をいう。1633〜1639間に五度鎖国令が出された。キリスト教禁止と貿易抑制を目的とし、その結果、諸外国からは孤立し、独自の文化が生まれた。ただ、通信国(国交のあった国)の朝鮮と琉球、通商国(国境はないが貿易はしていた国)の清・オランダとは引き続き交易した。1853ペリー来航をきっかけに開国した。

1633 鎖国令T 奉書船以外の海外渡航を禁止。
海外移住五年以上の者の帰国を禁止。
1634 鎖国令U
1635 鎖国令V 海外渡航をすべて禁止。
海外移住者の帰国をすべて禁止。
貿易地を長崎と平戸に限定。
1636 鎖国令W 通商に無関係のポルトガル人の子孫を海外追放。
1639 鎖国令X ポルトガル船来航をすべて禁止(鎖国の完成)。

薩摩藩(さつまはん)鹿児島藩(かごしまはん)
 江戸時代に九州南端にあった藩。外様。藩主は島津(しまづ)氏。石高は六十一万石→七十三万石(内高八十七万石)。1609島津家久(いえひさ)が幕府の許可を得て琉球(りゅうきゅう)を併合するが、1753宝暦治水事件・1808近思録崩れ(きんしろくくずれ)などで財政は窮乏、調所広郷(ずしょひろさと)の天保改革で再建し、島津斉彬(なりあきら)は洋式軍政・藩営事業を推進、幕政にも加わり、島津久光(しまづひさみつ)は雄藩連合を構想、1862英国人に対して生麦事件を起こすが、1863薩英戦争で報復されて攘夷を断念、西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)らが活躍し、1866長州藩と連携(薩長連合)、1868-1869戊辰戦争で旧幕府軍を破り、明治政府の中心勢力になった。

参勤交代=参覲交替(さんきんこうたい)≦参勤・参覲
 江戸幕府の政策の一つ。1635徳川家光が武家諸法度を改正して制度化。大名を一年毎(原則として)に江戸と領地とに交互に居住させ、妻子は江戸に住まわせた。大名の財政は窮乏したが、江戸の経済は潤い、交通が発展した。

サンフランシスコ平和条約(さんふらんしすこへいわじょうやく)サンフランシスコ講和条約対日平和条約・日本国との平和条約
 日本と連合国四十八か国との太平洋戦争の講和条約。1951サンフランシスコで開催。1952発効。ダレスが条約案を作成。日本全権は吉田茂(よしだしげる)首相以下。戦争終結・日本の主権回復(第一章)、朝鮮独立の承認、台湾・千島列島・南樺太等の放棄(第二章)、武装解除・国連への協力・外国軍駐留の容認(第三章)等が調印された。

幣原喜重郎内閣(しではらきじゅうろうないかく)=幣原内閣
 (1945-1946) 1945東久邇宮内閣の後を受け、婦人の解放・労働組合結成の奨励・教育制度改革・圧制的諸制度の撤廃・経済機構の民主化からなる五大改革指令を実行し、1946天皇の人間宣言を発表、公職追放を行い、金融緊急措置令・食料緊急措置令を発令、憲法改正に着手し、戦後初の総選挙を行ったが、自由党が第一党になって総辞職した。

衆議院(しゅうぎいん)=衆院(しゅういん)
 (1890- )日本国憲法のもと、参議院とともに国会を構成する両院の一つ。戦前は、大日本帝国憲法のもと、貴族院とともに帝国議会を構成。戦前は予算の先議権が認められ、戦後は加えて法律の再議決などが認められている(衆議院の優越)。

守護(しゅご)
 鎌倉・室町時代に国ごとに置かれた軍事・行政長官。古代の国司(こくし)、近世の大名(だいみょう)、現代の知事のようなもの。1185源頼朝(みなもとのよりとも)が初めて全国的に設置。戦国時代の下克上(げこくじょう)により衰退するが、なかには戦国大名として生き残るものもあった。

聖徳太子(しょうとくたいし)=厩戸皇子(うまやどのおうじ・うまやどのみこ)
 (574-622) 摂政(在任593-622)。587蘇我馬子(そがのうまこ)とともに物部守屋(もののべのもりや)を討ち、594仏教興隆の詔を発表、593推古(すいこ)天皇の摂政となり、難波(なにわ)に四天王寺(してんのうじ)を建立、603冠位十二階を・604憲法十七条を定め、607小野妹子(おののいもこ)ら遣隋使(けんずいし)を派遣、斑鳩(いかるが)に法隆寺(ほうりゅうじ)を建て、611注釈書『勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』・614『維摩(ゆいま)経義疏』・615『法華(ほっけ)経義疏』・620史書『天皇記』・『国記』を編修した。
日朝味4 憲法味 富豪味

白河法皇(しらかわほうおう)←白河上皇(じょうこう)←白河天皇(てんのう)←貞仁親王(さだひとしんのう)
 (1053-1129) 伝七十二代天皇(在位1072-1086。院政1086-1129)。後三条(ごさんじょう)天皇の第一皇子。母は藤原公成の娘・茂子。1068父の即位で親王になり、1070立太子、1072父の譲位によって即位し、1086子の堀河(ほりかわ)天皇に譲位して院政(いんせい)を開始、摂関家や弟の輔仁(すけひと)親王を牽制し、北面の武士を設置して武力を強化、東山に法勝寺(ほっしょうじ)を建て、孫・鳥羽(とば)天皇、ひ孫・崇徳(すとく)天皇の即位も見届けて実権を握り続けた。
富豪味

清(しん)
 (1616-1912) 近世〜近代の中国の王朝。1616太祖ヌルハチが女真族を統一して後金(ごきん)を興し、二代太宗ホンタイジが国号を清と改称、三代世祖順治帝が北京を攻略して首都となし、中国を統一したが、1840アヘン戦争を機に諸外国に侵食され、1894-1895日清戦争で日本に敗北、1911辛亥(しんがい)革命が起こり、1912宣統帝溥儀(ふぎ)の退位によって滅びた。

(ずい)
 (581-618) 古代中国の王朝。楊堅(ようけん)が創始。首都は長安(ちょうあん)。589南の陳(ちん)を滅ぼして中国を統一し、開皇律令を定め、中央集権体制を確立させたが、子の煬帝(ようだい)の時に東の高句麗(こうくり)遠征に失敗して衰退、その孫・恭帝が李淵(りえん)に禅譲して滅んだ。

受領(ずりょう)
 平安時代中期以降、現地へ赴任した国司のうち最高位の者。遙任(ようにん)国司に対していった。普通は守だが、守が赴任しない場合は介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)のうち最高位のものをいった。任国で貪欲(どんよく)に税を徴収し、富裕する者が多かった。
役人味

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための朝廷の軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)が就任して幕府を開いてからは世襲となった。将軍味

西南戦争(せいなんせんそう)
 九州の士族に担がれた西郷隆盛(さいごうたかもり)と明治政府の戦争。最後の士族反乱。1877西郷隆盛(さいごうたかもり)は私学校党ほか九州の不平士族に担がれて決起、熊本城を攻囲したが、南下する政府軍に田原坂(たばるざか)の戦いで敗れて撤退、宮崎の拠点を次々と落とされ、全軍を解散、鹿児島に戻って再挙を図るもかなわず、隆盛ら約百六十人が城山(しろやま)で敗死した。

大戦景気(たいせんけいき)
 (1915-1918) 第一次世界大戦中〜戦直後の好景気。大戦による需要拡大によって日本の輸出は急増し、債務国から債権国に転じ、工業が発展、内田信也(うちだのぶや)ら成金が誕生した。

平 清盛(たいらのきよもり)
 (1118-1181) 武将・公卿。太政大臣。忠盛(ただもり)の子。1156保元(ほうげん)の乱で後白河(ごしらかわ)天皇について勝利し、平治(へいじ)の乱でライバル源義朝(みなもとのよしとも)を討滅、1160武士として初めて参議になり、1167太政大臣に昇進(翌年辞任)、妻の妹・滋子(しげこ)を治天の君・後白河天皇(上皇・法皇)に、娘・盛子(もりこ)を摂関家の藤原基実(ふじわらのもとざね)に、娘・徳子(とくこ)を高倉(たかくら)天皇に嫁がせ、1177鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀で俊寛(しゅんかん)・藤原成親(ふじわらのなりちか)・西光(さいこう)ら反対派を排除、1179後白河法皇を幽閉して院政を停止させ、1180外孫・安徳(あんとく)天皇即位を実現、福原(ふくはら。兵庫県神戸市)遷都を強行し、大輪田泊(おおわだのとまり)を修復して日宋(にっそう)貿易を行った。

台湾出兵(たいわんしゅっぺい)=征台の役(せいたいのえき)
 1874日本が台湾を制圧したこと。明治政府初の海外出兵。琉球漁民(漂流民)殺害事件(宮古島民殺害事件)を機に西郷従道(さいごうつぐみち)らが台湾全土を制圧した。清は抗議したが、イギリスの仲介で日清互換条款が結ばれた。

高倉上皇(たかくらじょうこう)←高倉天皇←憲仁親王(のりひとしんのう)
 (1161-1181) 伝八十代天皇(在位1168-1180。院政1180)。後白河(ごしらかわ)天皇の皇子。母は平滋子(しげこ・じし。建春門院)。1166立太子し、平清盛(たいらのきよもり)の娘・徳子(とくこ。建礼門院)と結婚、1179父が清盛によって幽閉され、1180子・安徳(あんとく)天皇に譲位して院政を行った。

壇ノ浦の戦(だんのうらのたたかい)
 1185源義経(みなもとのよしつね)・源範頼(のりより)ら源氏と平宗盛(たいらのむねもり)ら平氏との最終決戦。屋島(やしま)の戦で敗れた平氏は長門の彦島で体制を整え、壇ノ浦(山口県下関市)で源氏を迎え撃ったが壊滅、宗盛は捕らえられ、安徳(あんとく)天皇・平知盛(とももり)ら一門の多くが戦死・入水し、平氏は滅亡した。

長州藩(ちょうしゅうはん)萩藩(はぎはん)
 江戸時代に本州西端にあった藩。外様。藩主は毛利(もうり)氏。石高は三十七万石(内高七十一万石)。1831防長大一揆を機に村田清風(むらたせいふう)が藩政改革を行い、吉田松陰(よしだしょういん)・高杉晋作(たかすぎしんさく)・木戸孝允(きどたかよし)・大村益次郎(おおむらますじろう)らを輩出、1863朝命を受けて攘夷を決行(外国船砲撃事件)するが、1864四国連合艦隊に下関を砲撃されて転向、第一次長州征討で幕府に屈服するが、1865第二次長州征討では撃退、1866薩摩藩と結び(薩長連合)、1868-1869戊辰戦争で旧幕府軍を撃破、明治政府の中心勢力になった。

朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく)=北朝鮮(きたちょうせん)
 (1948-) 東アジアの朝鮮半島北部にある社会主義国。1945日本降伏後ソ連が占領、金日成(キムイルソン・きんにっせい)らが臨時人民委員会を組織し、1948韓国に対抗して独立した。首都は平壌(ピョンヤン・へいじょう)。

天皇(てんのう)
 古代〜現代に至る日本の国王。推古天皇のときに成立? 初代天皇は神武(じんむ)天皇? 今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では国民統合の象徴。
女帝味

徳川家光(とくがわいえみつ)
 (1604-1651) 江戸幕府三代将軍(在職1623-1651)。秀忠(ひでただ)の子。乳母・春日局(かすがのつぼね)に育てられ、1623父から将軍職を継承、1632父の没後は幕政を主導し、武家諸法度(ぶけしょはっと)を改正して参勤交代(さんきんこうたい。参勤交替)を制度するなど幕藩体制を確立させ、踏絵(ふみえ)を実施してキリスト教を禁圧し、鎖国(さこく)を断行、1637-1638天草四郎(あまくさしろう)らが起こした島原(しまばら)の乱を鎮圧した。
富豪味

徳川秀忠(とくがわひでただ)
 (1579-1632) 江戸幕府二代将軍(在職1605-1623)。家康の子。父より将軍職を譲られ、1614-1615大坂の役で豊臣秀頼(とよとみひでより)を滅ぼして元和偃武(げんなえんぶ)を実現、武家諸法度・禁中並公家諸法度などを制定、1623子の家光に将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けた。

外様(とざま)≧外様大名
 江戸時代の大名の分類の一つ。関が原の戦い以降に徳川氏に従った大名。辺境に配され、原則として幕府の要職に付くことはなかった。

長崎(ながさき)
 現在の長崎県長崎市。県庁所在地。1571大村純忠(おおむらすみただ)がポルトガルとの貿易のために開港し、1580イエズス会に寄進、九州平定後、豊臣秀吉が没収して直轄都市とし、江戸幕府も長崎奉行を設置して統治、鎖国時代は唯一の貿易港として、開国後は重工業都市として発展したが、1945アメリカにより原爆が投下された。

南朝(なんちょう)
 (1336-1392) 1336足利尊氏(あしかがたかうじ)によって京都を追われた大覚寺統(だいかくじとう)の後醍醐(ごだいご)天皇が大和の吉野(よしの。奈良県吉野町)に立てた朝廷。後醍醐・後村上(ごむらかみ)・長慶(ちょうけい)・後亀山(ごかめやま)天皇と四代続いたが(1351-1352一時合体)、1392南北朝合体(南北朝合一)で消滅。
総理味

日米安全保障条約(にちべいあんぜんほしょうじょうやく)=安保条約(あんぽじょうやく)
 1951サンフランシスコ講和条約と同時に日本とアメリカとの間で結ばれ、1952発効した条約。前文と五条からなり、日本国内の米軍基地設置の承認などを定めた。1960日米相互協力及び安全保障条約に改定された。

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)≦東照宮←東照社
 栃木県日光市所在。徳川家康の霊廟。全国の東照宮の総本宮。権現造。1617徳川秀忠(ひでただ)が駿河久能山(くのうざん)から移し、1634-1636に徳川家光(いえみつ)が大改修した。本殿・石間・拝殿・陽明門などは国宝。世界遺産。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

日本国憲法(にほんこくけんぽう)
 (1947-) 現行の日本の憲法。十一章百三条。GHQが原案を作成し、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣に提示、吉田茂(よしだしげる)内閣が審議し、1946.11/3公布、1947.5/3施行。主権在民・象徴天皇・平和主義・戦争放棄・基本的人権の尊重・議院内閣制・地方自治の保障・司法権の独立などを規定している。

日本書紀(にほんしょき)
 日本最古の勅撰歴史書。六国史の第一。編年体。30巻。系譜1巻(現存せず)。舎人親王(とねりしんのう)・藤原不比等らが編集。神代〜持統朝までを収録。

日本自由党(にほんじゆうとう)→民主自由党→自由党
 (1945-1955)戦後に誕生した保守政党。初代総裁は鳩山一郎(はとやまいちろう)。1946吉田茂(よしだしげる)を総裁として第一党となって政権を担い、1948民主自由党に、1950自由党に改称、1955民主党と合同して自由民主党となった。

鳩山一郎(はとやまいちろう)
 (1883-1959) 政治家。首相(在職1954-1956)。和夫(かずお)の子。母は春子(はるこ)。1945日本自由党を結成するが、1946公職追放にあって一時下野、1954日本民主党総裁として首相に就任、1955保守合同により自由民主党初代総裁となり、1956日ソ共同宣言調印・国際連合加盟を実現した。

東久邇宮稔彦王内閣(ひがしくにのみやなるひこおうないかく)=東久邇宮内閣
 (1945) 戦後最初の内閣。史上唯一の皇族内閣。東久邇宮稔彦王(東久邇稔彦)が「一億総ざんげ」を唱えて戦後処理に当たり、日本軍を解体、連合国の進駐を受け入れ、降伏文書に調印、GHQの発した人権指令の実行をためらって総辞職した。

藤原道長(ふじわらのみちなが)
 (966-1027)公卿。摂政・太政大臣。藤原兼家(かねいえ)の子。995兄の道隆(みちたか)・道兼(みちかね)の死によって内覧となり、996長徳の変で政敵の藤原伊周(これちか)・隆家(たかいえ)兄弟を追放、左大臣に昇り、四人の娘(彰子・妍子・威子・嬉子)を四人の天皇(一条・三条・後一条・後朱雀)に嫁がせ、天皇の外戚として権力を掌握、1016摂政に、1017太政大臣に就任して摂関政治の最盛期を現出、1020法成寺(ほうじょうじ)を建て、日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)』を残した。
満月味 テロ味2
安倍味5

平安時代(へいあんじだい)
 (794-1185頃) 平安京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。794桓武(かんむ)天皇の平安遷都に始まり、初期は天皇家が、前中期は藤原氏が、後期は院政の主が、末期は平家が政権を担った。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置(事実上の鎌倉幕府の創立)頃までをいう。

平治の乱(へいじのらん)
 1159院近臣・藤原信頼(ふじわらののぶより)と源氏の当主・源頼朝(みなもとのよしとも)らが院近臣・藤原信西(しんぜい。通憲)や平氏の当主・平清盛(たいらのきよもり)らに対して起こした反乱。信頼・義朝らは清盛の留守中に後白河(ごしらかわ)法皇の三条殿を急襲、信西を討って朝廷の実権を握るが、戻ってきた清盛に六条河原で敗れ、信頼は処刑され、義朝は東国へ落ち延びる途中で殺された。

保元の乱(ほうげんのらん・ほげんのらん)
 1156上皇派(崇徳上皇・藤原頼長・源為義・平忠正ら)と天皇派(後白河天皇・藤原忠通・源義朝・平清盛ら)が京都で戦った内乱。戦いは天皇派の夜襲が成功し、一日で決着。頼長は敗死し、為義・忠正らは処刑され、崇徳上皇は讃岐へ流された。

三井物産(みついぶっさん)
 日本最初の総合商社。三井財閥の中核。1876益田孝(ますだたかし)を社長として設立。前身は先収(せんしゅう)会社と三井国産方。1892三井家直系となり、1893合名会社に改組、1894-1895日清戦争・1904-1905日露戦争で発展するが、第二次大戦後に解散、1959復活した。

三菱財閥(みつびしざいばつ)
 岩崎家が構築した財閥。1870岩崎弥太郎(やたろう)が三菱会社を設立、海運業(日本郵船会社)に進出し、政商として発展、1893弟・岩崎弥之助(やのすけ)が三菱合資会社を設立し、金融業(三菱銀行など)・鉱工業(三菱鉱業・三菱重工・三菱自工・三菱電機・三菱造船・三菱石油など)など広部門に渡るコンツェルンを形成するが、1945財閥解体で解体された。

源義朝(みなもとのよしとも)
 (1123-1160) 武将。為義(ためよし)の子。1153下野守となり、1154家督を継承、1156保元(ほうげん)の乱で後白河(ごしらかわ)天皇について勝ち、左馬頭(さまのかみ)に就任するが、清盛らと対立、1159平治(へいじ)の乱で院近臣・藤原信頼(ふじわらののぶより)と結び、院近臣・藤原信西(しんぜい。通憲)を討つが、平清盛(たいらのきよもり)に敗れ、東国へ落ち延びる途中、尾張で長田忠致(おさだただむね)に殺された。

源頼朝(みなもとのよりとも)
 (1147-1199) 武将。鎌倉幕府初代将軍(在職1192-1199)。父は源義朝(よしとも)。1159平治(へいじ)の乱で父とともに平清盛(たいらのきよもり)らと戦って敗れ、1160捕われて伊豆へ流刑、1180以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて伊豆で挙兵、石橋山(いしばしやま)の戦で大庭景親(おおばかげちか)に敗れるが立て直し、富士川(ふじがわ)の戦で平維盛(これもり)を撃退、鎌倉(かまくら)を本拠に軍事政権を築き(後の鎌倉幕府)、侍所(さむらいどころ)・1184公文所(くもんじょ。後の政所)・問注所(もんちゅうじょ)を設置、1185平氏を滅ぼし、諸国の守護(しゅご)・地頭(じとう)任命権と兵粮米(ひょうろうまい)の徴収を許され、1189奥州(おうしゅう)藤原氏を倒し、1190右近衛大将(うこのえたいしょう)・1192征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した。

山名持豊(やまなもちとよ)→山名宗全(そうぜん)
 (1404-1473) 武将。但馬等守護。侍所所司(頭人。在職1440-1441)。時煕(ときひろ)の子。1431兄・持煕(もちひろ)の失脚によって家督を継ぎ、1440侍所所司(さむらいどころしょし)に就任、1441嘉吉(かきつ)の乱で赤松満祐(あかまつみつすけ)を討ち、播磨を加えて五か国を領有(一族で九か国)、1444赤松満政(みつまさ)を討ち、赤松氏再興や斯波(しば)・畠山(はたけやま)l)両氏の家督相続問題や将軍継嗣問題で管領・細川勝元(ほそかわかつもと)と対立、1467-1477応仁の乱に発展して西軍の主将となり、陣中で没した。
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煬帝(ようだい)
 (596-618) 隋(ずい)の第二代皇帝(在位604-618)。黄河と長江を結ぶ大運河を造り、吐谷渾(とよくこん)を制圧して領土を拡張したが、高句麗遠征には失敗、607遣隋使小野妹子が持参した日本の国書を無礼だと激怒するも和すが、江都(揚州)で側近に殺された。

吉田 茂(よしだしげる)
 (1878-1967) 政治家。首相(在職1946-1947,1948-1954)。竹内綱(たけのうちつな)の子。吉田健三の養子。戦前は外交官として駐英大使まで昇り、戦後は東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)内閣・幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)両内閣で外相に就任、1946公職追放された鳩山一郎(はとやまいちろう)の要請で日本自由党(後の民主自由党・自由党)総裁として組閣、傾斜生産方式をとり、経済安定九原則実施に着手して財政再建に努め、日本国憲法の公布と施行、警察予備隊・保安隊(自衛隊の前身)・海上保安庁の設置、サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約の締結し、奄美諸島返還を実現させた。
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