2.色々思い出しとら | ||||||||||||||
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高岳親王 PROFILE | |
【生没年】 | 799?-865? |
【別 名】 | 真忠・真如・遍明和尚・入唐三御子 ・皇子禅師 |
【出 身】 | 平安京(京都市)? |
【本 拠】 | 平安京(京都市) →超昇寺(奈良市)ほか →唐→マレー半島 |
【職 業】 | 皇族・真言宗僧 |
【役 職】 | 皇太子→廃太子→修理東大寺大仏司検校 |
【位 階】 | 四品 |
【 父 】 | 平城天皇 |
【 母 】 | 伊勢継子(伊勢老人の娘) |
【 子 】 | 在原善淵・安貞 |
【墓 地】 | ジォホールバル日本人墓地(マレーシア) |
私は平城天皇の第三皇子として延暦十八年(799)に生まれた(異説あり)。
母は伊勢継子(いせのつぐこ)。
正四位下の官人・伊勢老人(おきな。中臣伊勢老人。「菅降味」参照)の娘である。
父については 「怨霊味」と「平城味」と「内乱味」にあるので省略する。
私には阿保親王(あぼしんのう。「安保味」参照)という兄の他に、巨勢親王(こせしんのう)という弟や、上毛野内親王(かみつけぬないしんのう)ら妹もいる(「天皇家系図」参照)。
え?
第三皇子ってことは、もう一人兄がいるのではって?
いますよ。もちろんいますよ。
正確にはいました。もういません。
私はこの兄のことには触れたくありません。
この時代に詳しい方は予想がつくと思います(「ヤミ味」「怨霊味」参照)。
そうです。たたりでとり殺されたんです。
彼については史書には名前すら書かれていません。
あまりに恐ろしすぎて、書けなかったのです。
大同四年(809)四月、父・平城天皇が譲位した。
この月私は、叔父・嵯峨天皇の即位を受けて皇太子になった。
「皇位譲ってやるから、朕の子を皇太子に」
「分かりました」
父と叔父には盟約があったのであろう。
こうして私は次期天皇のいすに座った。
何もなければ私は叔父の後を継いで自動的に即位したはずであった。
が、あってしまった。
大同五年(810)、父が叔父に反乱(薬子の変)を起こして敗れてしまった(「内乱味」参照)。
当然、盟約は反故(ほご)にされた。
父は失脚し、とばっちりを受けた私は廃太子にされた。
私は父の失敗を見て悟ったのである。
(争いに負ければすべてを失うものだ。これからは何があっても争わないほうがいい。そうすれば、これ以上落ちることはないであろう)
それからの私は庶民のように生きた。
何のとりえもない女と結婚し、善淵(よしふち)と安貞(やすさだ)という二子を得た。
二子には在原(ありわら・ありはら)姓が与えられ、正真正銘の臣下になった。
在原姓は兄の阿保親王の子らにも与えられるが、私の子たちが元祖である(「在原氏系図」参照)。
弘仁十三年(822)、叔父・嵯峨天皇は私に四品を与えた。
品とは親王の位である。
私は驚いて聞いた。
「私は許されたのですか?」
「ああ。子たちも王に復してはどうか?これからのお前たちには出世が待っている」
私は恐怖した。
「嫌です!」
「何だと?」
「皇籍に戻れば、争いに巻き込まれやすくなります!私も家族もそんな思いはしたくありません!子たちはこれまで通り臣下で結構です!私も出世はゴメンです!」
私は出世が嫌で出家してしまった。
法名は真忠(しんちゅう)、後に真如(しんにょ)といった。
東大寺で三論宗の道詮(どうせん)に学んだ。
興福寺で法相宗の修円(しゅえん・しゅうえん。「三密味」参照)にも学んだ。
東寺では、真言宗開祖・空海に学び、その十大弟子の一人に数えられた。
空海が入滅した承和二年(835)には、旧平城宮(奈良県奈良市)にあった楊梅宮(やまもものみや)の跡地を賜って超昇寺(超勝寺)を創建した。
西芳寺(さいほうじ。京都市西京区)や不退寺(ふたいじ。奈良市)などにも住んだことがある。
承和九年(842)、嵯峨上皇が崩御すると、政変(承和の変)が起こった。
そしてなぜか「陰謀」を密告した兄の阿保親王が死んでしまった。
(争いに巻き込まれて消されたのだ……)
私はますます用心した。
斉衡二年(855)、怪事件が起こった。
地震が起きたわけでもないのに、東大寺の大仏の首がコンコロリンと落ちてしまったのである。
人々はパニックになった。
「ああっ!なぜか大仏さまの首が落ちたー!」
「こんなところに転がってる〜!」
「大仏さまが死んじまうなんて、何かものすごいたたりに違いねえー!」
「きっとそうよ!『ボクに歯向かったものはこうだ!』っていう、怨霊(おんりょう)からの啓示なのよー!」
「怖えー!怖すぎるよー!」
文徳天皇は高僧たちに大仏の首をつなげるように命じた。
「誰か大仏を蘇らせられる者はおらぬか?」
しかし高僧たちはみな尻込みした。
「私にはそんな大役ムリです」
「大仏様でも勝てない怨霊に、愚僧ごときが勝てるわけありませんて」
「愚禿(ぐとく)もまだ死にたくありませんな」
「うちは葬儀担当です。犠牲者が出た際には御用命を」
そのため、大仏の首は半年余りも放置された。
「えーい、誰もやると申す者はおらぬのか!」
困った文徳天皇に、右大臣(当時)の藤原良房が言った。
「そうそう、一人忘れておりました。私は絶対に断らない高僧を知っております」
「誰じゃ、それは?」
それは私であった。
良房は私の邸に頼みに来た。
「猊下(げいか)、総責任者である修理東大寺大仏司検校(しゅうりとうだいじだいぶつのつかさけんぎょう)、やってくださいよ〜」
私は嫌であった。
「嫌です!私も怨霊は怖いので」
良房は引き下がらなかった。
「ほう。怨霊は怖いが、この私は怖くないということですか?」
「そんなこと言ってませんて」
「あなたはこの役目を断ることはできません。断ったらどうなるか、阿保お兄さまの件でよく知っているはずですから」
「!」
私は恐怖した。
(こっ、こっ、こっ、殺されるぅ〜!)
良房の強面がズイと迫ってきた。
「修理東大寺大仏司検校、やってくれますよね?」
「やります、やります〜」
私は引き受けるよりほかなかった。
貞観三年(861)三月、私は無事に大仏を完成させ、開眼法要を行うことができた。
その間、良房は臣下初の太政大臣を極め、文徳天皇没後は外孫で幼帝の清和天皇を擁立、事実上の摂政としてこの国の全権を掌握した(「諾威味」参照)。
(やりたいホーダイだな)
思っても口にはできなかった。
「大仏復興のほうびは何がいいですか?」
「いえいえ、何もいりませんてっ」
これ以上出世すれば、僧とはいえ国政に介入してしまわないとも限らない。
私は良房ににらまれるのが恐ろしかった。
(政争に巻き込まれるより仏法を極めたほうがいい。なるべく良房から遠く離れて)
貞観四年(862)、私は仏法を極めるため、禅林寺(ぜんりんじ)の宗叡(しゅうえい)や、唐の通詞・張支信(ちょうししん)ら、僧や俗人、水夫ら六十人を率いて唐へ渡った。
長安(ちょうあん。中国・陝西省西安市)では西明寺に住み、青竜寺の法全(はっせん)から伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受けた。
が、唐の皇帝・武帝(ぶてい)が「会昌(かいしょう)の廃仏」という仏教弾圧政策をとっていたため、居心地が悪かった。
「唐の仏教は落ち目だ。どうせここまで来たのだから、仏教発祥の地である天竺(てんじく。インド)を見てみたいものだ」
唐の咸通六年(865)、私は広州(こうしゅう。中国・広東省広州市)を発して天竺へ向かった。
その途中で道に迷い、供の者たちともはぐれ、マレー半島で虎たちに出くわしてしまったのであった。
※ 高岳親王と巨勢親王は同じ母から同じ年に生まれたとされているため、双子か同一人物の可能性があります。
※ 高岳親王が藤原良房に脅されたという確証はありません。