1.一休さん、悟る。

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元日生まれの有名人
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 一休宗純は応永元年(1394)一月一日に京都の民家で生まれた。
 父は北朝最後の天皇、後小松天皇
(ごこまつてんのう。「天皇家系図」参照)。母は南朝方の貴族・花山院(かざんいん)家の娘である。

 一休が生まれる二年前、南北朝の動乱が終結し、両朝の合体が成立していた(「総理味」「南北味」参照)
 合体とはいっても、南朝の後亀山天皇
(ごかめやまてんのう)が譲位し、北朝の後小松天皇がそのまま天皇を続けることになったわけだから、事実上は南朝方の屈服である。
 そのため、南朝に属していた貴族は追い落とされ、一休の母の実家も貧乏のどん底に突き落とされた。

 しかし、一休の母はプライドが高かった。
 いくら落ちぶれたとはいえ、自分は帝の子を生んだ女なのである。彼女は何が何でもこの息子を立派に育て上げなければ気がすまなかった。
 そこで彼女は、一休を寺に預けることにした。
 僧であれば、たとえ貧乏でも才能次第で出世できると考えたのである。

一休宗純 PROFILE
【生没年】 1394-1481
【別 名】 周建・狂雲子
【出 身】 京都(京都市)
【本 拠】 山城安国寺→宝幢寺→建仁寺
→霊泉院→壬生・西金寺
→近江祥瑞庵→大徳寺・尸陀寺
・売扇庵・瞎驢庵・酬恩庵・徳禅寺
・竜翔寺・桂林寺・大灯寺・虎丘庵
・妙勝庵・慈済庵・松栖庵・雲門寺・など
【職 業】 臨済宗僧(大徳寺派)
【役 職】 大徳寺住職(勅命のみ)
【 父 】 後小松天皇
【 母 】 花山院某女
【 妻 】 森女?
【 子 】 岐翁紹禎?
【 師 】 象外集鑑・謙翁宗為・華叟宗曇ら
【弟 子】 宗祗・山崎宗鑑・村田珠光
・尾和宗臨ら
【著 作】 『狂雲集』『自戒集』『一休法語』
『骸骨』など
【墓 地】 酬恩庵(京都府京田辺市)
・大徳寺(京都市北区)

 一休は六歳になると、山城の安国寺(あんこくじ。京都市中京区)の小僧に出された。
 初名、周建
(しゅうけん)。一休と名乗るのは、二十五歳を過ぎてからである。
 したがって、アニメの「一休さん」は、本当は「周建さん」でなければおかしい
(でも、この物語でも「一休」で統一するのだ)
 当時の安国寺の住職は、夢窓疎石の孫弟子、象外集鑑
(ぞうがいしゅうかん)
「偉い人になるのよ」
 母に見送られ、一休は、
「はい」
 と、承知した。
 母は一休の心理を心得ていた。
「お前が偉い人になれば、お父さんは会ってくださるのよ」
 お父さんに会うこと――。
 それが一休の夢であった。

 一休は「偉い人」になるために、がんばって勉強した。
 そして、どうしたら「偉い人」になれるかを自分なりに考えた。
(そうだ。和尚さんは偉い人だから、和尚さんのことをよく観察して、和尚さんのようになればいいんだ)
 その日から、一休は和尚の様子を見張ることにした。
 昼も夜も問わず、こっそり観察し始めた。

 確かに、昼の和尚は偉い人であった。
 しかし、夜の和尚は偉い人ではないときもあった。
 なにやら隠れて坊さんがしてはいけないことをコソコソやっていることがあった。
 一休に疑問が生じてきた。
(本当に和尚さんは偉い人なんだろうか?)
 十二歳のとき
(十五歳とも)、一休は安国寺を出た。
 各地を放浪し、高僧と呼ばれていた禅僧たちのもとで勉強した。
 しかし、彼らを観察すればするほど、勉強すればするほど、一休が描く理想と現実とのギャップは広がっていった。

 二十七歳のとき、一休はカラスが鳴くのを聞いて、ついに悟りを開いた。
 そして、次のような結論に至ったと思われる。
(『偉い人』というものは、この世の中にほんの少数しか存在しない。しかし『偉い人』ぶっている人はたくさんいる。そういう人ほど、本当はタチが悪い。特に五山の僧たちは腐っている。全部が全部そうとはいえないが、大半が派閥抗争に明け暮れているろくでもない連中ばかりだ。それでも連中には知恵がある。カネがある。幕府にこび、身分を保証されている。悪いことをしても、おおやけにされることはない。処罰されることはない。だから、端から見れば、偉い人に見えるだけなんだ。本当は偽善者なんだ。庶民はだまされている。いや、だましていると信じているはずの五山の僧たち自身が、本当は魔物にだまされているんだ。自分たちのしていることが醜いということに気がついていないんだ。何とかしなければならない。五山の僧たちの真のありようを庶民たちに知らしめ、五山の僧たちの目を覚ましてやらなければならない)

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