3.庶民たち、怒る。 | ||||||||||||||
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正長元年(1428)八月、幕府や五山の腐敗に怒った近江の庶民たちが徳政(とくせい。借金棒引き)を求めて暴動を起こした。後にいう「正長の土一揆(しょうちょうのつちいっき)」である。
九月に入ると京都の庶民も暴徒と化し、酒屋や土倉を襲撃して借用書を燃やし、略奪暴行を繰り返した。まるで平成十四年(2002)現在のアルゼンチン状態だ。日本もそうならないことを祈る。
まもなく管領・畠山満家(はたけやまみついえ)が軍隊を出動させて暴徒を蹴散らしたものの、暴動は瞬く間に畿内各国へ拡大、手の施しようがなくなってしまった。これにより、畿内各国の守護や大寺社は、庶民の要求をのんで徳政令を発令した。
「おい。暴れると、借金がチャラになるんだってよ」
庶民たちは味をしめた。
酒屋や土倉から借金しては暴動を起こし、徳政を要求するようになった。正長の土一揆は翌年に治まったが、暴動は播磨・丹波・伊勢などで次々起こった。
暴動の鎮圧にてこずった播磨等三国守護の赤松満祐は腹を立てた。
「これもみんな将軍の治政が悪いからだ」
嘉吉元年(1441)六月二十四日、満祐は六代将軍・足利義教(「クジ味」参照)を自宅に招き、酒を飲ませてぶっ殺してしまった(「暴君味」参照)。
満祐は程なくして幕府軍によって滅ぼされたが(嘉吉の乱。「処理味」参照)、これにより将軍の権威は地に落ちた。
一方、暴動のほうは、いつもどこかでだれか起こし続けていた。
「なんてヤツらだ」
幕僚たちはたたいてもたたいても違うところから次々と上がる火の手に手を焼いた。全然楽しくないモグラたたきだ。
「将軍さま、なんとかしてくださいよ〜」
都合の悪いときだけ頼ろうにも、義教の後を継いだ七代将軍・義勝(よしかつ)は、まだ八歳のボーヤで、お話しにならない(「足利氏系図」参照)。
「それより、おいしいお菓子でもな〜い?」
しかもこの義勝、わずか十歳で赤痢(せきり)にかかって死んでしまう始末。
当然、その後を継いだ弟・足利義政も、バリバリのお子様。
「世も末じゃ」
幕府の実力者、畠山満家が没し、その子持国も死ぬと、畠山氏では家督争いが勃発。これが斯波氏(「斯波氏系図」参照)に飛び火し、将軍家にも飛び火し、応仁元年(1467)に応仁の乱に発展、山城の国一揆、加賀の一向一揆(「北陸味」参照)などといった庶民たちによる独立国家まで誕生し、時代は戦国へと突入していくのである。