4.一休さん、死ぬ。 | ||||||||||||||
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応仁の乱は十一年も続き、京都は焼け野原になった。
五山の寺々もほとんどが炎上し、壊滅に近い大打撃をこうむった。当然、その権力も、ワイロとして差し出そうとしていた金品も、燃え尽きたり、略奪されたりしてしまった。
一休は、幕府や五山の衰退を、どう思ったであろうか?
「私は勝ってしまった。五山の僧たちの目を覚まさせるどころか、逆につぶらせてしまったようだ……」
まるで自分が庶民たちをけしかけて各地で暴動を起こさせ、将軍・義教を殺させ、応仁の乱を起こさせて幕府や五山をつぶしてしまったようである。もちろん彼にそんなつもりは全然なかった。しかし、結果的に庶民の力が幕府の屋台骨を揺るがし、五山の権勢を喪失させてしまったのは事実である。
しかも一休は、康正二年(1456)から京都南郊外に酬恩庵(しゅうおんあん・一休寺。京都府京田辺市)を営み、そこに移り住んでいた。まるで京都が焼け野原になることを事前に予測していたかのように。
その一休も、文明十三年(1481)十一月二十一日、とうとう臨終を迎えた。
「一休さんが死にそうだそうだ」
話を聞きつけて弟子たちが酬恩庵に集まってきた。
一条兼良・宗祗・村田珠光・山崎宗鑑・金春禅竹(こんぱるぜんちく。猿楽金春座を中興)・六角定頼(ろっかくさだより・近江南半国守護。「剣豪味」参照)・宗長(そうちょう。連歌師)・曽我蛇足(そがじゃそく・だそく。水墨画の達人)など、史上名を残すそうそうたる面々が、みんな一休の弟子だったのである。
「師匠、大丈夫ですか?」
大丈夫のはずはなかった。もうすぐ死ぬのである。
「もっと、近く……」
一休は力ない手で弟子たちを呼び寄せた。
(御遺言をおっしゃるのだ)
弟子たちは争って一休のそばににじり寄ってきた。
「何か、言い残したいことは?」
一休は一言、こういい残してあの世へ旅立っていったという。
「死にたくねぇ……」
[2001年12月末日執筆]
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