3.急 | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2020>令和二年12月号(通算230号)隠蔽味 藤井紋太夫手討3.急
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元禄七年(1694)十一月二十三日、徳川光圀は小石川(こいしかわ。東京都文京区)にある水戸藩邸で能の会を催した。
光圀は一番舞ったが、途中で台詞を忘れて楽屋へ下がり、食事を摂った。
食後、光圀は人払いさせて藤井紋太夫徳昭を楽屋に呼びつけた。
「近う寄れ」
「はい」
「もっと近く」
「密ですが」
「息が臭いとでも言うのか?」
「いえ、そういうことでは……」
藤井がにじり寄ると、光圀は肩に手を置いて飛沫(ひまつ)を飛ばしながら小声で語りかけた。
「あれから考えてみた」
「何をでございますか?」
「犬将軍の呼びつけの件じゃ」
「ああ」
「犬将軍の目的は、毛皮の説教などではない」
「と、おっしゃいますと?」
「幕府の『草』が家中をかぎ回っているようじゃ」
「何と!」
「やはり、あの件について取り調べるつもりに違いない」
「ですか」
「となると、口裏を合わせておかねばなるまい」
「ですね」
「わしはあの件には一切関与していない」
「はい?」
「綱条(つなえだ。光圀の養子。水戸藩主)も誰も関与していない」
「え?」
「すべての陰謀は、藤井紋太夫徳昭が独断で企んだことだ」
「へ!」
「己の野心がために」
「そ、そんな……」
「許せ。藩を守るためじゃ。お前の家族に連座は適用しない。家族の面倒は一生見てやる。だから、お前がすべての罪をかぶるのじゃ」
「し、しかし……」
「頼む!藩のために死んでくれぬか?」
「拙者は、死にたくありませぬ……」
光圀は土下座した。
「頼む!このとおり!一生のお願いじゃ!」
「そんなふうになされても、拙者は絶対に死にたくありませぬ。どうか、お顔を上げてくださいませ。上様には正直に申し上げればいいではありませぬか。上様は殺生を嫌っています。命まで取られることはありますまい」
「どうしても聞いてくれぬか?」
「はい。拙者は娘の嫁ぎ先を見届けなければなりません。かわいい孫の顔も見とうございます」
「柳沢保明の孫か?」
「はあ?」
「聞いたぞ。お前の娘は保明の息子(柳沢吉里)とネンゴロだそうだな?」
「ええっ! そっ、そんな話は初耳ですが……」
「しらばくれるんじゃねえ! 敵に娘を差し出して、テメーだけ助かろうと思っているんだろ!」
「存じません! 本当に初耳ですってっっ!!」
ボカン!
「ぶ!」
光圀はいきなり藤井の顔を殴りつけた。
首を抱えて畳に押さえつけると、首元に膝を乗せて全体重をかけて動けなくした上で、
ぬぷ! ぬぷり!
脇差「法城寺正弘」でもって左右の胸を一回ずつ刺してしまった。
藤井はそのまま声も立てられずに絶命してしまったという。
その後、光圀は陰謀関連の書類を全部燃やして証拠を隠滅すると、老中・阿部正武(あべまさたけ)に理由あって藤井を成敗した旨を報告した。
幕府が陰謀について、それ以上詮索することはなかったという。
[2020年11月末日執筆]
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※ 陰謀の中身や首謀者には諸説あります。