1.終わりの始まり | ||||||||||||||
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こんにちは、キョーテーです。
競艇じゃありません。狂帝です。
もう、御存知ですよね?「平安三狂帝」。
そうです。朕(ちん)――、つまり、陽成天皇と、冷泉天皇(「狂気味」参照)と、花山天皇(「安倍味」「満月味」参照)のことです(「天皇家系図」参照)。
これらが本当は狂帝じゃなかったことも分かっていますよね?
そうです。すべては藤原北家(「北家系図」参照)が摂関政治を確立させるために仕組んだ陰謀だったのです。
朕の名前は貞明(さだあきら)。
貞観十年(868)十二月十六日に清和天皇(「諾威味」参照)の第一皇子として染殿院(そめどのいん。京都市上京区)で生まれました。
母は藤原高子(たかいこ。「北家系図」参照)。
そうです。在原業平(「在原氏系図」参照)と浮名を流した「三千人の中で一番」な女です。
藤原長良(ながら・ながよし)の娘でしたが、藤原良房の養女として父・清和の女御(にょうご)になりました。
貞観十一年(869)二月、朕はわずか二歳で皇太子になり、貞観十八年(876)十一月に、父の譲位を受けてなんと九歳で天皇になりました。
そこまでの経緯については「諾威味」にありますので省略します。
もちろん、九歳のお子様に実権はありません。
母の兄、藤原基経が摂政として政務を代行しました。
元慶六年(882)正月、朕は十五歳で元服しました。
同年二月、基経は摂政から関白に転じました。
朕は成長すると、あることに気が付きました。
ある時、基経の仕事ぶりを見ていて、思っていたことを口にしてしまいました。
「伯父(おじ)さんって、結構怠け者なんだね」
「はあ?」
「だって、仕事はしょっちゅうすっぽかすし、難しい仕事は部下に丸投げするし、自分は書画骨董(こっとう)集めばかりに熱中しているじゃないか」
基経はニヤリとしました。
「よくできました」
「はあ?」
「それがわかるようになったら、一人前です」
「ど、どうも」
「ただし、人としての一人前は、摂関時代の帝としてはふさわしくありません」
「どういうことだ?」
「卒業が近いということです」
「え?」
「帝のお父さまのように」
「?」
朕は訳が分かりませんでした。