1.吾輩は犬である | ||||||||||||||
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捕鳥部万の犬 PROFILE | |
【生没年】 | ?-587 |
【名 前】 | 不明(シロ?) |
【飼 主】 | 捕鳥部万(物部守屋の従者) |
【父 母】 | 不明 |
【仇 敵】 | 蘇我馬子・河内国司某 |
【墓 地】 | 義犬塚古墳(大阪府岸和田市) |
吾輩は犬である。
名前はあるが、伝わってない。
吾輩の主人は捕鳥部万(ととりべのよろず)――。
古墳時代の武人である。
御存知ない方も多いと思われるが、主人の主人は少し有名である。
大連・物部守屋(「物部氏系図」参照)――。
そう。あの大臣・蘇我馬子(「襲撃味」「蘇我氏系図」参照)のライバル廷臣なのである。
守屋は武官の長であり、馬子は文官の長である。
守屋は排仏派であり、馬子は崇仏派である。
そのため、仏教嫌いな大王(敏達天皇)の代には守屋が権力を得、仏教好きな大王(用明天皇)の代には馬子が権勢を誇った(「天皇家系図」参照)。
ようするに、水と油で相容(い)れなかった。
守屋の妹が馬子に嫁いだものの、その程度で二人の仲が良くなるわけがなかった。
用明天皇二年(587)四月、大王・用明天皇(「法王味」参照)が没した。享年不明。
守屋は勇み立った。
「馬子の天下は終わった!馬子と仲たがいした穴穂部皇子(あなほべのみこ・おうじ)を擁立して権力奪還だ!」
が、馬子がそうはさせなかった。
穴穂部皇子を血祭りにあげると、守屋討伐のため挙兵したのである。
「仏教を容認しない物部守屋を討伐せよ!」
これがいわゆる「丁未の乱(ていびのらん。丁未の役)」である。
馬子は河内渋河(しぶかわ。大阪府東大阪市)にあった守屋邸を急襲するが、守屋は稲城(いなき)を築いて応戦、エノキに登って次々と群がる敵に矢をつがえて奮戦したものの、厩戸皇子の舎人・迹見赤檮(とみのいちい)なる者に射殺されてしまった。
「大将がやられた〜」
こうして物部軍は敗走、壊滅してしまったのである。