1.皇太子すげ替え | ||||||||||||||
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橘奈良麻呂 PROFILE | |
【生没年】 | 721?-757? |
【別 名】 | 橘宿祢奈良麻呂・諾楽麻呂 |
【本 拠】 | 平城京(奈良県奈良市)・恭仁京(京都府木津川市) 山城国相楽別業(京都府井手町)・難波京(大阪市) |
【職 業】 | 公卿(政治家) |
【役 職】 | 大学頭→摂津大夫→民部大輔→侍従→参議・兵部卿 →参議・右大弁ほか |
【位 階】 | 無位→従五位下→従五位上→正五位上 →従四位下→従四位上→正四位下 |
【 父 】 | 橘諸兄 |
【 母 】 | 藤原多比能(不比等の娘) |
【 妻 】 | 大原明娘 |
【 子 】 | 橘嶋田麻呂・清友・安麻呂・入居 |
【従兄弟】 | 橘古那可智(聖武天皇夫人)・橘綿裳・橘文成・橘真都我 ・藤原光明子・原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂ら |
【主 君】 | 聖武天皇・孝謙天皇 |
【盟 友】 | 大伴古麻呂・小野東人・多治比犢養・多治比国人 ・佐伯全成・佐伯大成・鴨角足・黄文王・安宿王ら |
【友 人】 | 藤原乙縄・大伴家持・藤原豊成・林王ら |
天平勝宝九歳(757)一月六日、前左大臣(「古代官制」参照)橘諸兄が七十四歳で死んだ(「 辞任味」参照)。
大納言兼紫微令(しびれい。紫微中台長官。「紫微中台幹部」参照)藤原仲麻呂が皇太后藤原光明子にあいさつに来た。
「この度は御愁傷様でございます〜」
光明子は諸兄の異父妹であり(「橘氏系図」参照)、紫微中台(しびちゅうだい)の宗主である。彼女は仲麻呂がニヤリとしたのを見逃さなかった。
「前左大臣が死んで、うれしいのですか?」
「いえいえ。彼は話の分かる人でしたから〜」
仲麻呂は否定したが、付け加えた。
「――ですが、話の分かる人の息子が、必ずしも話が分かるとは限りません」
諸兄の長子である参議兼兵部卿(ひょうぶきょう)橘奈良麻呂のことをいっていることは明白であった。
「ヤツは謀反をたくらんでおります」
光明子は顔を曇らせた。
「そのことは、もう聞き飽きました」
「私は対策を取らないうちは、何度でも申し上げるつもりです。何といってもヤツには安積親王(あさかしんのう。「天皇家系図」参照)即位を画策した前歴があるんですよ」
「安積はもうこの世にはおりません。彼らの盟主はもういないんです。それに、その安積を手にかけたのは誰でしょうか?」
「私は殺してませんて!」
「しかし、世間はあなたに疑惑の目を向けています。そのことを蒸し返せば、不利になるのはあなたのほうですよ」
「……」
仲麻呂は悔しがった。
「まあいい。ヤツのことは私の手の者が終日監視しておりますから、何かあったらまた報告いたします。言っておきますが、ヤツはいつか必ず動いてきます。盟主なんてものは、いくらでも取っ替えることができるんですよ。――ただ、本日参上したのはそのことではありません。とびっきりの美女女官を数人、お貸し願いたいのです」
皇太后は別の意味でムッとした。
「話の展開が不自然です。そんなもん何に使うのですか?」
「あ、いや。私が使うのではありません。ある方のもとに差し向けたいので」
「ある方とは、皇太子ですか?」
現皇太子は聖武天皇の遺言によって立太子した道祖親王(ふなどしんのう。道祖王。「天皇家系図」参照)である。
「正解!では、目的もお分かりですね?」
「道祖親王を貶(おとし)めるんでしょう?」
「さすがは皇太后陛下!なぜ分かりましたか?」
「道祖親王の兄・塩焼王(しおやきおう)の例がありますから」
塩焼王はかつて有力な皇位継承者の一人であったが、天平十四年(742)十月、女孺(にょじゅ。下級女官)数人と不適切な関係になったため、品行不良のため伊豆三嶋(みしま。静岡県三島市)へ流刑にされていた。三年後に許されて帰京したものの、皇位の話はぶっ飛んでいる。彼がはめられたかどうかは定かではない(「2004年6月号 ヤミ味」参照)。
仲麻呂は主張した。
「道祖親王は女帝(孝謙天皇。光明子の娘)の好みではありません。女帝の好みは大炊王(おおいおう)です」
大炊王は舎人親王の王子で、後の淳仁(じゅんにん)天皇である(「天皇家系図」参照)。仲麻呂の子・真従(まより)の未亡人である粟田諸姉(あわたのもろね)と結婚したため、田村(たむら。奈良県奈良市)にある仲麻呂邸(田村第)に住んでいた。
この田村邸には孝謙天皇も何度かお泊りしているため「田村宮」とも呼ばれていた。このことで孝謙天皇と仲麻呂の仲を疑う説があるが、彼女の目的は大炊王のほうだったと思われる。
「悪い人」
光明子はささやいたが、笑みを含んでおり、たしなめるものではなかった。
こうしてとびっきりの美女女官数人が入れ代わり立ち代わり道祖親王のいる春宮(とうぐう。皇太子邸)に差し向けられた。
が、なぜか道祖親王はこれを拒み続けた。
「おかしい」
仲麻呂は首をかしげた。
「差し向けている余の方がつまみ食いしたくなるような美女ばかりなのに、どうしてヤツは引っかからないのか?」
仲麻呂は不思議に思いながら、次の手を考えた。彼は妻の藤原袁比良(えひら。宇比良古)と将棋を指していたのであった。
「王手!」
袁比良の「歩兵」が裏返った。ウラにはなぜか「鎌足」と書いてあった。彼女が書いたのである。
「カマタリ?」
仲麻呂一瞬首を傾げたが、感づいた。
すぐに紫微少忠(しょうひつ)葛木戸主(かずらき・かつらぎのへぬし)を呼んだ。
「何でしょうか?」
「なんじの妻は京内の孤児を集めて養育しているそうだな?」
「はい」
戸主の妻は和気広虫(わけのひろむし。法均尼)。かの和気清麻呂の姉である(「女帝味」「和気氏系図」参照)。
「その中から、とびっきりの美少年を数人、貸してほしいのだが」
「はい〜?」
戸主は変な顔をした。
勘違いされたと思った仲麻呂は否定した。
「余はなんじが考えているような男ではない」
戸主はそれを逆に勘違いした。
「ははは……。そーっすか。この世の中には色々な方がいらっしゃいますもんねっ。いえいえ、恥ずべきことではありませんよ。さっそくただ今――」
こうして今度はとびっきりの美少年数人が春宮に送り込まれた。
「な、なんだい?君たちは何?」
前回とは明らかに道祖親王の目の色が異なっていた。
美少年たちは有無を言わさず寄ってたかって手取り足取り奉仕した。
道祖親王はわめいた。
「ほれてまうやろー!」
彼は歓楽――、もとい、陥落した。
三月二十九日、道祖親王は聖武天皇の喪にも服さず、侍童といかがわしい行為を繰り返していたという理由で皇太子を辞めさせられ、親王から王に戻された。
「どーせオレは皇太子の器じゃねーよっ!」
道祖王は捨てゼリフを吐いて退去したという。
四月四日、孝謙天皇は群臣を集めて意見を求めた。
「次は誰を皇太子にすべきかしら?」
表向きの政界首班である右大臣藤原豊成(とよなり。仲麻呂の兄。「南家系図」参照)が発言した。
「塩焼王殿がいいでしょう」
「そうですな」
中務卿(なかつかさきょう)・藤原永手(ながて)も同じたが、摂津大夫・文室智努(ふんやのちぬ。「文室氏系図」参照)らが反対した。
「変態流刑の前歴がある王は太子には好ましくありません。池田王(いけだおう。舎人親王の子)殿のほうがよろしいかと」
これには左大弁・大伴古麻呂(おおとものこまろ)も同調した。
孝謙天皇は仲麻呂も聞いた。
「なんじは誰がいいと思う?」
仲麻呂は答えた。
「子のことを最も良く知っているのは親です。それと同じで、臣下のことを最もよく知っているのは天皇陛下です。私は陛下の御意に従います」
永手も納得した。
「道理ですな」
永手は北家の当主であり、仲麻呂の正室・袁比良の兄である。
また、仲麻呂の娘・藤原児従(こより)が彼の弟・藤原千尋(ちひろ。後の御楯)に嫁いでおり、南家仲麻呂流と北家は事あるごとに連携していた(「北家系図」参照)。
孝謙天皇は勅を発した。
「朕(ちん)も皇太子は新田部親王か舎人親王の王子の中から選ぶべきだと思う。でも、今回は新田部親王の子である道祖王の不祥事があった後なので、舎人親王の王子の中から選びたいと思う。その中では船王(ふねおう)は女ぐせが悪く、池田王は孝行に欠けるところがある。そこで大炊王を皇太子にしようと思うが、いかがであろうか?」
大炊王が田村宮で飼われていることは周知である。豊成も古麻呂も不満であったが、勅命だけに反対はできなかった。
「御意のままに」
「仰せの通りに」
こうして大炊王が皇太子に立てられ、大炊親王になった。
五月四日、平城宮(へいじょうきゅう・へいぜいきゅう)の大改修のため、孝謙天皇が田村宮に移り住んだ。
思惑通りの展開に仲麻呂はほくそ笑んだ。
「奈良麻呂よ、貴様はどう出る?」