2.吉備真備の戦略

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WBC決勝戦イチローvs林昌勇
1.皇太子すげ替え
2.吉備真備の戦略
3.藤原仲麻呂紫微内相
4.決行の日
5.橘奈良麻呂の変
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難波宮[1][2][3][4][5][6]

 橘奈良麻呂は旧都・摂津難波宮(大阪市中央区)で客人を待っていた。
 九州からの内密の客人である。
奈良麻呂殿。お久しぶりですな」
 客人は覆面をかぶっていた。
「あなたのほかに誰もいないであろうな?」
「もちろんです」
「なら、取るか」
 客人は覆面を取った。
 それは藤原仲麻呂によって大宰府に左遷された大宰大弐
(だざいのだいに。大宰府次官。「古代官制」参照)吉備真備であった(「2008年10月号 辞任味」参照)
「用心深いですね」
「天知る地知る我知る人知る。用心に越したことはない。――で、例のものは用意できましたかな?」
「ええ。鴨角足
(かものつのたり)に作らせました」
「何!角足といえば、仲麻呂の側近の一人ではないか。そのような者、信用できるのか?」
 角足は紫微大忠
(しびだいちゅう。紫微中台次官)仲麻呂の直属の部下であり、左兵衛率(さひょうえのかみ。左兵衛督)たる宮城警備隊長も務めている武官である。
「はい。信用できるかどうかは別として、仲麻呂近辺について様々な情報をもたらしてくれることは確かです」
 奈良麻呂はブツを渡した。
 ブツとは図面であった。
 仲麻呂邸、つまり田村宮の詳細な図面であった。
 真備はバサバサ広げ見ると、鼻息を荒げた。
「この図面はホンモノじゃ!田村宮を訪れた人々の話とことごとく一致する!なんと!抜け穴まで描いてあるではないか!ヒッヒッヒ!出入口が分かっていれば、それらを封じた上で夜討ちを仕掛ければ、ヤツに逃げ場はない!」
 奈良麻呂はフッと笑った。かみしめるように言った。
仲麻呂の時代は終わりました。権力者の最期というものは、存外あっけないものですよ。長屋王もそう。藤原四兄弟もそう
(「2001年11月号 テロ味」参照)。そして、父もそうでした。仲麻呂の最期もまた、大波の前の砂の城のように一気に崩壊するのです!図に乗るなよ、仲麻呂!貴様のこれまでの数々の悪行を、私は決して許さない!安積親王のこともそう!父の追い落としもそう!皇太子すげ替えなどもみんなそうだ!」
 真備が「行基図
(ぎょうき)」を広げた。行基が全国行脚に使ったといわれる大ざっぱな日本全図である(「2004年1月号 温泉味」参照)
奈良麻呂殿。わしの考えた作戦とはこうじゃ。まずはこの地図を見てほしい」
 真備が地図中の畿内近辺諸国を次々と指差しながら言った。
「畿内及び周辺諸国の国司の軍勢はあてになりませんな。近江仲麻呂の兼職、大和仲麻呂に丸め込まれた藤原永手の兼職、摂津大夫
は文室智努、河内は藤原魚名(うおな。永手の弟)山背は高麗福信(ふくしん。背奈福信)丹波は巨勢堺麻呂(こせのせきまろ・さかいまろ)紀伊は藤原石津(いしづ。元石津王。仲麻呂の養子)伊勢は佐伯毛人(さえきのえみし)尾張は多治比土作(たじひのはにつくり)美濃は大伴犬養(おおとものいぬかい)、いずれも仲麻呂の息のかかった連中ばかりじゃ」
「確かに。これでは我々に勝ち目がないのでは?」
「いや、そうではない。仲麻呂が固めているのは上っ面だけですからな」
 真備摂津を指差して説明した。
「たとえば、ここ難波に広大な別宅を持ち、古くから地盤を持つ男は誰ですかな?」
右大臣藤原豊成公」
「そのとおり。では、この河内に古くから地盤を持つ大豪族の長老は?」
「中納言の多治比広足
(ひろたり)卿」
「それなら、山背に古くから地盤を持つ大豪族は?」
秦氏!」
近江は?」
「小野
(おの)氏!」
 一つ一つ答える度に奈良麻呂の顔が明るくなった。何しろこれらの人々はみな反仲麻呂派だったからである。
 真備は最後に大和を指して尋ねた。
「では、ここで藤原氏よりはるか以前から朝廷の軍政を担当してきた大豪族の当主と、同じく軍事氏族物部氏の直系の子孫として朝廷の武器倉たる布留宮
(ふるのみや。石上神宮。奈良県天理市)を代々管理している大豪族の当主は誰ですかな?」
「言わずと知れたこと。兵部少輔
(ひょうぶのしょう)大伴家持と、治部少輔(じぶのしょう)石上宅嗣です」
「左様。少し見方を変えればたちまち味方ばかりじゃろう?」
 真備が大きくうなずいて続けた。
「実はの、四面楚歌
(そか)の状況下にあるのは仲麻呂のほうなのじゃ。仲麻呂はこのような状況を打破するために数少ない配下の者どもを畿内およびその近辺の国守に散らばらせた。しかしそのためにヤツの本拠である田村宮は手薄になった。さらに今は平城宮改造のために女帝は田村宮に移り住んでいる。分かりますかな?田村宮に夜討ちを掛けるのは今ですぞ!田村宮を包囲して仲麻呂を殺し、女帝と皇太子を一挙に退ける好機なのですぞ!間髪容(い)れずに皇太后宮を急襲して印璽(いんじ。天皇印と太政官印)と駅鈴(えきれい。通行手形)を奪い、勅命(天皇の命令)と称して豊成公を呼び出し、主な関所を固め、全国に仲麻呂派の残党狩りを命令させる。諸王の中から新たな天皇を立てるのはその後でもいい。これ以上の好機は今をおいてほかにありませんぞ!参議に兵部卿を兼ねているあなたならできるはずです!女帝に代わって軍政を掌握(しょうあく)しているあなた様ならできるはずです!わしはこれに呼応して大宰府の兵を率いて西国諸国を平定する!立ちなされ!今こそにっくき仲麻呂を倒し、亡き父君の御無念を晴らす時っ!」
 奈良麻呂は震え立った。
「分かっています。今こそ仲麻呂によって葬り去られたすべての人々の仇
(あだ)を討ち、仲麻呂に虐げられているすべての人々を救済するのだっ!」

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