3.藤原仲麻呂紫微内相

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WBC決勝戦イチローvs林昌勇
1.皇太子すげ替え
2.吉備真備の戦略
3.藤原仲麻呂紫微内相
4.決行の日
5.橘奈良麻呂の変

 天平勝宝九歳(757)五月二十日、四十年ほど前に藤原不比等らが完成させた古代国家の基本法典「養老律令」がいまさらながら施行され、藤原仲麻呂が「紫微内相(しびないそう)」なる新設の役職に就いた。
 これは仲麻呂の兼職紫微令の権限を強大化させた准大臣であり、軍政も統括した軍事総監でもあった。
 橘奈良麻呂は不審がった。
「何?軍事権も掌握?それなら兵部卿を兼ねている私の立場はどうなるのだ?」
 疑問を持つ間もなかった。
 六月十六日には奈良麻呂の兼職は兵部卿から右大弁
(うだいべん。「古代官制」参照)に替えられてしまったのである。兵部卿の後任は、これも仲麻呂に近い参議兼紫微大弼の石川年足(いしかわのとしたり)。文政三年(1820)摂津真上(まかみ。大阪府高槻市)で発見された彼の墓誌は有名である。
 奈良麻呂は憤った。
仲麻呂め!私が鬼だということに気づき、金棒を取り上げたのか!」
 また、奈良麻呂の同志である左大弁
(さだいべん)・大伴古麻呂は、鎮守将軍(ちんじゅしょうぐん。鎮守府長官。東北軍事総監)兼按察使(あぜち)として、辺境の陸奥へ転任することになった。
「左遷ではないか!」
 奈良麻呂はおもしろくなかったが、こちらは考え方によっては好都合であった。
陸奥の軍事権を掌握した古麻呂は東国平定を目指せるというわけだ。私が都で火の手を上げ、吉備真備大宰府から西国を制圧し、古麻呂が多賀城
(宮城県多賀城市)から東国を平定すれば、天下統一は成るというわけだ。フハハ!ならば陸奥下向の途中では古麻呂にやってもらいたいことがある」
 奈良麻呂は出立前の古麻呂に策を授けた。
 古麻呂は承諾した。
「分かりました。美濃に至ったら仮病を使ってとどまり、不破関
(ふわのせき。岐阜県関ヶ原町)を封鎖するんですね?――で、大炊親王を廃した後の皇太子は誰に?」
「まだ決めていないが、黄文王
(きぶみおう。長屋王の子)・安宿王(あすかべおう。同左)・塩焼王・道祖王の中から選ぼうと思う。初めから一人に決めればもめるもとになる。それより何より、仲麻呂を亡き者にすることが先決だ」
「なるほど」

 同日、孝謙天皇は以下の禁制五か条を発した。

  一、諸氏族の氏上(うじのかみ)は氏人を集めて会合を行ってはならない。
  二、諸王・臣下は法令の制限以上の馬を飼ってはならない。
  三、法令の制限以上の武器を蓄えてはならない。
  四、武官を除く宮中での武器の所持を禁止する。
  五、宮中での二十騎以上の集団行動を禁止する。

 これ以前、巨勢堺麻呂から密告があったためであった。
「先帝
(聖武天皇)の侍医(じい。担当医)を務めていた答本忠節(とうほんちゅうせつ)がこう申しておりました。『鎮守将軍・大伴古麻呂が前備前・小野東人(おののあずまひと)に田村宮夜襲に加わるよう誘っていた』と」
「なんですって!」
 孝謙天皇は驚いた。あたふたした後、いとしの大炊親王に泣きついた。
「あたし怖い〜」
「おー、よしよし」 
 仲麻呂は冷静であった。
「ほう。で、東人は乗ったのか?」
「ええ、乗ったそうです。忠節はこのことを豊成公に知らせたそうですが、豊成公は『何と言っても仲麻呂は私の弟だ。古麻呂や東人には私が言って聞かせておくから、このことは誰にも言うな』と、口止めされたそうです」
 仲麻呂は笑った。
「兄貴らしいが、悪事の隠蔽
(いんぺい)は許すわけにはいかぬ」
「とりあえず、古麻呂や東人らを逮捕しますか?」
「待て。それではまだ奈良麻呂などの名前が出ておらぬ。証拠も不十分だ。もう少し泳がせておけ」
「承知」

 六月二十八日、今度は但馬・山背王(やましろおう。後の藤原弟貞)から密告があった。
橘奈良麻呂が田村宮夜襲を計画しています。どうやら大伴古麻呂もグルのようです」
 山背王は長屋王の子で、黄文王や安宿王の兄弟である
(「天皇家系図」参照)
 が、奈良麻呂が挙げる皇太子候補に自分だけ入っておらず、おもしろくなくてチクッたとみられる。
 仲麻呂は山背王に問うた。
「決行予定日までは分からないか?」
「はあ、そこまでは……」
「うーん」
 そこへ鴨角足がやって来た。
「内相閣下。決行予定日は私が調べてまいりました」
 彼は奈良麻呂と通じているが、表向きはまだ仲麻呂の側近であり、田村宮に出入りしていた。
「いつだ?」
「七月三日です。ヤツはその日にここを取り囲む予定です」
 ウソであった。彼はわざと一日遅らせて報告したのである。
 しかし仲麻呂はそれを信じた。
「そうか。それならまだ少し間があるな」
「そうです。その間に田村宮に詰めている人の中には、気が短くてイライラしてくる人も現れるでしょう。高麗福信とか、坂上苅田麻呂
(さかのうえのかりたまろ。「坂上氏系図」参照)とか――。そこで二日の日に、これら豪傑たちを私の邸宅に招き、パーッと宴会でも開いて気勢を盛り上げておこうと考えているのですが……」
 角足の邸宅は、田村宮より十キロほど南の額田部
(ぬかたべ。奈良県大和郡山市)にあった。
「なるほど。いい提案だな。だが、翌日までには戻ってこないと困るが……」
「大丈夫です。二日の夜には私もそろって田村宮に帰ってきます」
 角足はそう言った後、心の中だけで続けた。
(フフフ、奈良麻呂に率いられ、テメーの敵としてだが……)

 角足は去っていった。
 藤原袁比良が心配そうな顔をして将棋盤を持ってきた。
「なんだ、その顔は?」
 仲麻呂は袁比良の頭をなでで、こうささやいた。
奈良麻呂の決行日は七月二日だ」
 袁比良はうれしそうにこっくりうなずいた。
 仲麻呂は駒を並べながら笑った。
「角足め、バカなヤツだ。余分なことを言わなければ、バレなかったものを」

 六月二十九日夕刻、奈良麻呂は一味の者どもを太政官庁の庭園に集めると、ともに塩汁をすすり、天地に対して誓いの礼拝を行った。
「決行日は七月二日夜!我々に幸運あれ!」
 中には集まった意図が理解できていない者たちもいた。
「で、これは何の集まりかな?」
「ま、まさか、これは……」
 黄文王や安宿王らである。
 東人が横からささやいた。
「時が来れば分かります。あなた方の悪いようにはいたしません」

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