3.大願成就 | ||||||||||||||
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文政八年(1825)五月、水野忠邦は大坂城代に就任、その翌年十一月には京都所司代に転じ、文政十一年(1828)十一月についに西ノ丸の老中に就任した。
西ノ丸の主・将軍継嗣徳川家慶の側近になったわけだ。
天保五年(1834)二月、老中首座・水野忠成が死んだ。享年七十三。
「ああ、恩人も死んだか」
忠邦は悲しんだ後、ウホッと笑った。
「青雲の要路だ!」
忠邦は忠成だけではなく、将軍家斉の御機嫌うかがいも欠かさなかった。
これ以前、忠邦は江戸の菓子屋・風月堂の美少女を養女に仕立てて家斉に差し出している。
「今日は浜名湖(はまなこ。静岡県)からウナギを取り寄せてまいりました」
「ウナギだと。ウナギは下種な食べ物ではないか?」
「そうかもしれませんが、精がつくんですよ〜」
「ほう!
精とな」
性豪家斉の目が輝きまくった。
「お美代、今晩一緒に食べようかい。ほれ!
ほれ!」
「やめてくださいもー、これ以上の精は〜」
お美代は家斉の四十一人の妻の一人である。ちなみに家斉の子女は、公称五十五人(実際はそれ以上)。天皇家随一の性豪・嵯峨天皇の五十人を上回るすさまじさである。
お美代、クネクネと伸びてきた手をハエたたきのように打ち払って言った。
「あら。水野様の前で、いやですわ〜」
中でもお美代は家斉のお気に入りで、溶姫(ようひめ)・仲姫(なかひめ)・末姫(すえひめ)の三女を成していた。
ちなみに現存する東京大学の赤門は、溶姫が加賀金沢(かなざわ。石川県金沢市)藩主・前田斉泰(まえだなりやす)に嫁いだ際、前田家がお祝いに造ったものである。
お美代もまた、いつもお土産を持ってきてくれる忠邦が大好きであった。唐津藩主のときは、高価な伊万里焼(いまりやき)の壺なんかもとしどし持って来てくれたのであろう。
忠邦は、これ見よがしにぼやいた。
「ああ、残念です。西ノ丸の老中ではなく、本丸の老中であれば、こうして毎日のようにお土産が持参できるのですが……」
「そうなの!?
だったらならせてあげましょうよ!」
「うん。そうじゃな」
というわけで、本丸の老中に移されたのであろう。
天保八年(1837)九月、家斉は家慶に将軍を譲って西ノ丸に移ったが、なお大御所として実権を握り続けた。
したがって、天保十年(1839)十二月、とうとう老中首座に昇り詰めた忠邦であったが、当初は思うがままに執政することはできなかった。
「倹約をしよう!」
いくら忠邦が主張しても、ゴージャス家斉率いる「西ノ丸派」が賛同するはずなかったからである。
しかしゴージャス家斉も、天保十二年(1841)閏一月三十日に六十九歳で死んだ。
「ああ、かわいがってくれたあの方も死んだか」
忠邦は悲しんだ後、ウホッと笑った。
「青雲の要路だ!」
忠邦は歓喜した。
「いよいよ余は誰にも気兼ねなく、この国にカツを入れ、先導することができるようになったのだーっ!」