4.独裁者降誕 | ||||||||||||||
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水野忠邦は「西ノ丸派」を粛清した。
「西ノ丸派」とは、大御所・徳川家斉に取り入っていた人々のことで、特に若年寄林忠英(はやしただふさ。肥後守)、御側御用取次(おそばごようとりつぎ。大御所総務長)水野忠篤(ただあつ。美濃守)、小納戸頭取(こなんどとうどり。大御所雑務長)美濃部茂育(みのべもちなる。筑前守)の三人は、三人そろって「三佞人(さんねいじん)」と呼ばれていた。
忠邦は、三人そろって「三佞人」を真っ先にクビしてやったのである。
「大御所亡き今、あなたたちの仕事はない。罷免だ!」
「どうして?」
「そんな〜」
「いやだー」
「やかましい! あなたたちはこの国難に対して何の手も打ってこなかった! ただひたすら自分の懐を温めることだけしか考えてこなかった!
無能のヤカラはミジメにシッポを巻いて去れ! 顔も見たくないわっ!」
三佞人の失脚に、庶民は喝采した。
「やるなあ、水野越前守(忠邦)」
そして、こんな落首を詠んだ。
どんぶりと寝耳へ水野美濃あはれ
飛ぶ鳥も落ちて林の下屋敷
肥後が月頃作る罪科(つみとが)
美濃部から出る錆(さび)なれば是非もなし
荒砥(あらと)にかけて落とす越前
忠邦が粛清したのは、三佞人だけではなかった。
勘定奉行・田中喜行(たなかよしゆき)、新番頭格(しんばんがしらかく。人事部長)・中野石翁(なかのせきおう)らも、ためらいもなくクビにしたのである。
ちなみに中野石翁は、お美代の養父であった。
そうそう。忠邦はお美代もクビにしていた。
「なんでよ!」
お美代は怒った。忠邦のところに押しかけて食って掛かった。
「あなた、誰のおかげで出世できたと思ってるのよ!」
「亡き大御所や亡き老中忠成殿、そして、あなたのおかげですよ」
「よく分かってるじゃない! だったらどーして恩をアダで返すようなことをするのよ!」
「仕方ないことです。あなたの仕事はもうないんですから。え? 何かあるんですか? 何もないでしょう! あなたを必要としていた大御所はもういないんですから。そう。大奥にも江戸城にも、あなたを必要としている人は誰一人としていないんですよ! あなたはお払い箱なんですよ! 粗大ゴミなんですよ!」
お美代は歯ぎしりして悔しがった。
「キーッ! ムッカツク〜! この、ミズノエチゼン〜! 大岡越前とはえらい違いだわ〜!」
「ああ、やかましい。誰か、このうるさい女をおっぽり出せ!」
「はい。ただ今!」
「無礼者!
あっち行け! まだ話は終わってないわよっ!」
「命令ですから〜」
「やめてって! 触るな! えいっ! このっ! いやあーーっ!」
お美代は相当暴れたが、結局、おっぽり出された。
余りに強引な忠邦のやり方に、人々は恐怖した。
老中・太田資始(おおたすけもと)もその一人であった。
(いらないヤツは即クビだって……。いくらなんでも無茶苦茶ではないか! わしだってヒトゴトではない。大した才能があるわけではないし、いつクビになってもおかしくないアリサマではないか)
太田は困った。困った挙句、いいことを思い付いた(悪いことだが……)。
(そうだ! やられる前にやっちまえばいいんだ! ここは一つ「天下の副将軍」にオシオキしてもらおう!)
御三家の水戸家当主・徳川斉昭に加勢を頼み、忠邦を失脚させようと企んだのである。
が、忠邦には優秀な監視役がいた。
目付鳥居耀蔵(とりいようぞう。忠耀。甲斐守)――。
大学頭林述斎(はやしじゅっさい)の子で、人々から「妖怪(耀甲斐)」と恐れられた、いわゆる「水野の三羽烏(さんばがらす)」の筆頭である。
ちなみに三羽烏残りの二人は、鳥居の盟友で金づるの金座御金改役(きんざおかねあらためやく。造幣局長)後藤光亨(ごとうみつのり。三右衛門)と、政策立案に敏腕を振るった天文方(てんもんがた。気象庁長官)渋川敬直(しぶかわひろなお。六蔵)である。
鳥居は、すぐに太田の企みを見破った。
「太田殿。ちょっと」
「な、何だね?」
「それにしてもずいぶんいい裃(かみしも)ですね。絹ですか? 贅沢ですねー。越前公は藩主就任以来、ずっと粗末な木綿を身につけておられるのですが」
「……」
「それより太田殿は、越前公の失脚の望んでいるそうですね?」
「え、なんで知ってるんだ!?」
「悪事は千里を走るんですよ」
鳥居は太田の企てを忠邦にチクッてあげた。
結果は明白であった。
「改革に反対派はいらない。太田。とっとと幕閣から出て行ってもらおうか」
「そんな〜」
こうして太田資始も老中を辞めさせられた。
天保十二年(1841)六月のことである。
また、この前月、大老井伊直亮(いいなおあき。直弼の養父)も、
「わし、もう年じゃから〜」
と、逃げるように隠居している(一説に罷免されたとも)。